odd_hatchの読書ノート

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エドワード・H・カー「ロシア革命」(岩波現代選書)

 「革命」がいつ始まり、いつ終わったかの合意をとることは難しい。この小さな本では、1917年の帝政崩壊から1929年のスターリン体制確立までを扱っている。ほかの人であれば1905年の血の日曜日を開始とするだろうし(トロツキー「裏切られた革命」などがそう。)、スターリンの粛清が完了した1934年を終わりにするかもしれない。ここではその種の定義論争は行わない。重要なのは、なにが起きたか、ということ。それを政治と経済の両方で押さえることになる。

・1917年の2月革命は、松田道雄「世界の歴史22 ロシア革命」(河出文庫)で見た。
・1917年の10月革命は、ジョン・リード「世界をゆるがした十日間」(筑摩書房)でみた。
・そのあとドイツとの停戦と国内の内戦が問題になる。ここで活躍したのがトロツキー。彼は軍用列車を住まいとして、各地を転戦し、勝利に導いた。このころウラルの小麦栽培地帯では深刻な不作が起こる。そこで、戦時共産主義を発令し、価格統制・分配の統制を行い、農民からの穀物強制徴発を行う(記載はないが農民の餓死者が多数出た)。これらは強制的・暴力的に行わざるを得ず、チェーカーのちのゲーペーウーが組織される。同時に党の組織も中央集権化が進み、政治局(その中の書記局)の権力が増していく。
・1919-21年までの内戦と不作のために、戦時共産主義を標榜し、統制経済を行うことになる。行政サービスや工場の技術者は、ボリシェヴィキにシンパシーを感じていないので、サボタージュや欠勤で対抗した。レーニンらは「意識された労働者」=革命家を現場に派遣したが、事務仕事に慣れていず、高度な知識・技術を理解しがたかったので、生産性・効率性は落ちた。とりわけ工場などの科学技術者が必要な現場では、外国人(初期はドイツ人、第1次5か年計画のころはアメリカ人)技術者を大量に雇用することになった。「国家と革命」を読んだときの感想が杞憂ではなく、実際におきていたわけだな。
1921年レーニン脳卒中で倒れ、1922年秋に病没した。革命を指導する強い力が失われ、党内の覇権闘争が開始される。最大の有力候補はトロツキーであったが、妙なことにトロツキーは政治的な運動をせず、一切を党にまかせた。それを利用したのがスターリンたち。過去のレーニンとの確執、葬儀の不在などを利用して、弾劾し、1927年に除名・追放する。この意味は山口昌男「歴史・祝祭・神話」(中公文庫)に詳しい。その一方、党内にはスターリンを模倣する小権力者が現れ、彼らが「自発的」に敵を探し告発し、党員や国民を監視する制度をつくっていく。
レーニン共産党の党員資格を極めて厳格に適用したので(彼の理論からすると当然)、死亡時の党員は数万人(25000-75000の間)だった。レーニン死亡後に大量に入党させたので、党員は数十万人(40-50万人)になる。このとき、革命初期からの党員は責任者や幹部に抜擢されていたので、平党員の質は落ちていた。スターリンを支持したのはレーニン入党者たち。
・当時のロシアの問題は農村にあった。古い農業で生産性が向上せず、ミールは農民の保守性を温存し、自給自足が可能な生活は国家の経済政策から切り離されていた。1926-27年には豊作にもかかわらず、穀物を売りに出さなかったために、都市の食料が不足した。ソ連が経済成長するには農業の生産性の低さと、工業の遅れによる供給不足が原因だった。それを「解決」するのが、スターリンの進める「工業化」である。
・1929年からの「第1次5か年計画」で電化・工業化がすすめられたが、国内資産と貯蓄が乏しかったために、投資資金が不足した。党が行ったのは、農村からの強制徴発、労働者賃金の据え置き、消費税などの増税赤字国債の発行、マネーサプライ増加であった。インフレと食料不足が起こる。投資のための資産が少ないので、農民・労働者などの貧困層から収奪(搾取)してそれに充てたわけだ。国民の不満はあるものの、すでにソヴェトは国民の意思を反映する機関ではなく、各種の「会議」「委員会」などの官営組織が政策を決定(もちろん党の発議のうえで決める)。トロツキーらの排除は、政治的な優位をとるためだけではなく、農民・労働者から収奪して「工業化」を実現する党の施策を妨げられないようにするためだった。
スターリンの評価は、西洋化の推進者で残酷な専制者(ピョートル大帝に比べられる)。ロシア・ナショナリストの鼓吹者で、社会主義は上から押し付けるもので、自由と平等には無関心、残酷・妬みが深く、慎重この上ない政治的寝業師。
 書かれたのは1979年。ブレジネフ書記長が十数年の政権を担当して、鉄のカーテンの向うでは何が起きているかはよくわからないが、経済が停滞し、科学技術が進展せず、市民の迫害や監視は相変わらずひどいという状態が漏れ聞こえてくるくらいだった。当時は社会主義共産主義の危機はソ連より中国やベトナム、東欧諸国にあると思っていたと記憶する。その当時にあって、90歳を目前にした著者が回顧するロシア革命は、マルクス-レーニンの指導する社会主義建設をスターリンが簒奪し、権威主義国家に変容してしまった、スターリンの死後、後継者もスターリンの引いた官僚制や監視制度をそのまま維持しているというものだった。自分はすでにレーニン「国家と革命」を読んだときに思ったように、レーニンの路線自体が人権迫害や経済停滞をもたらすものであったと考えるので、カーの主張は受け入れられない。
 むしろ、この本は開発途上国が自国の資産だけで経済成長プログラムを発動したときの失敗例であるという視点で読んだ。なるほど、国内の資産や貯蓄が乏しく、十分な設備投資ができない。国民の教育程度は低く、工業を定着するには熟練労働者が不足。一方、農村は古い因習のために生産性を上げられず、過剰な労働力の行き場がない。それはこの国の明治維新と似た条件であった。ロシアでは経済成長に失敗し(国内の農民や労働者を厳しく搾取して設備投資にまわすことでどうにか成長は達成したが)、この国ではゆっくりとであったが国内資本を増やし経済を成長することができた。大きな違いは資本主義のグローバル化が1868年と1917年では格段に異なり、この国では周辺国家からの軍事緊張がなかったというところにあるだろう。しかしそれ以外の経済や政治政策にも違いがあるはず。ロシア革命は失敗した開発プログラムということで、開発経済学のよいケーススタディになるだろう。
 もう一つの視点は、政権の改革・転換・転覆について。1917年当時、帝政はすでに機能不全に陥っていた。国民、人民の意思は帝政の廃棄であった。このとき、ロシアには政権を担当できるだけの党員と社会機能を喪失しないだけの支持者をもっている政党や民間グループはなかった。それが事態をスムースに収束させなかった理由だろう。都市労働者を支持基盤にし、軍隊の支持を取り付けた少数の党派が政権を握る。もともと中央集権制とエリート意識を持ち、国民や人民の要求・要望を聞く必要を持たない非民主的な党派が、暴力と監視の体制を引くのは必然であった。経済成長に当たっては国家が自由な市場を機能させることが必要。国家が非民主的で、市場の機能が制限されたところでは、労働者や農民などの弱者を搾取・収奪して投資にまわすことになる。この点からも、ロシア革命はだめな経済成長プログラムだったといえる。