odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

和田京平「読む全日本プロレス」(MF文庫ダ・ヴィンチ)

 ジャイアント馬場全日本プロレスは1972年に創立された。さまざまなスターレスラーを誕生させ、1999年に社長のジャイアント馬場が亡くなった後、選手とフロントで内紛がおき、分裂した。そのあと新日本プロレス武藤敬司が社長に就任する。それも2013年に退社し、現在は新しい体制で運営されているらしい。
 さてこの本は、設立から武藤体制の半ばまで全日本プロレスの裏方をつとめた人によって書かれた全日本プロレス史。主要登場人物はジャイアント馬場ジャンボ鶴田三沢光晴(いずれも若くして亡くなった)。団塊の世代として生まれ、中学卒業から働きだし、一方で不良になりかかった青年が全日本プロレスのリング屋(註が必要かなあ、リング設営を専門にする裏方の仕事。なにしろ鉄柱一本が200kg位するので、素人には手におえない)になる。かつてディスコ(1970年前後のバンドの生演奏のやつだ)に通ったおかげで、リズム感とステップが抜群。そこを見込まれてレフィリーも兼ねる。若いうちは、前座の試合をさばき、ときにコミカルな演出もしたものだが、1990年以降にメインを裁くまでになる。ときには選手よりも大きな声援を観客からうけることもあったのだ。
 そのような団塊の世代の仕事とのかかわり方、それもとても職人的な、を読むのにもいいかもしれない。彼がレフェリングを覚え、選手にからかわれたり、ときには試合をコントロールしたり。彼は「ほうきを相手にしても、自分のレフェリングで名勝負にすることができる」と豪語する。そのこだわりはみごと。実際にテレビ他で著者のレフェリングを見ると、ときに選手以上に目を奪われる瞬間がある。そういう観客をひきつけるレフェリングができたのは、ほかにはレッドシューズ・ドゥーガン、アル・ヘブナーくらいかなあ。この国ではミスター高橋ジョー樋口阿部四郎か。
 裏方仕事の裏話もおもしろいけど、ここではプロレス興行がいかに水物か、いかに利益を出しにくいかが興味深い。1990年代前半、四天王プロレスと銘打たれたハードヒットとカウント2.9の応酬のプロレスは熱狂的なファンを生んだ。都内でも地方でもどの会場でも満員が続く。地方会場の大都市では5000人以上、中都市では3000人を一回の興業に集客できる。著者がいうには、それでも地方会場の興業はすべて赤字というのだ。利益が出るのは、年に7回の日本武道館大会で13000−15000人を集め、次回大会の前売り券がその場で数千枚売れるから。その利益で地方興行の赤字を補填し、テレビ会社からの放映権料収入で黒字を確定する。
 そういう自転車操業的な会社の運営を強いられることになる。原因はいろいろあるだろう。ガイジン選手への高額なギャラとか、一興業にかかわるのが選手・裏方で50名以上という固定費であり、チケット代金を高額にできない事情であるだろう。1960年代前半、プロレスは紳士淑女あるいはサラリーマンが見に行くものであった。それが1980年代から高校生大学生に代わる。たぶんサラリーマンは残業時間が多くなり、金はあっても見に行けなくなったからだ。代わりに金のない若者をターゲットにするようになると、チケット代金をあげられない。選手のグッヅで売り上げをあげるようになるのは1980年代後半から。今では地方会場だと1000人に満たないこともあり、ますます経営は苦しいはず。
 顧客視点にたつと、団体がふえたおかげで、県庁所在地くらいの中規模都市では数か月に一回はなにかしらの興業がある。需要より供給が多いので、一興業あたりの売り上げは下がるという循環に入っている。
 そんな具合に興業はみずもので、経営は安定しないのに、選手やフロントは新団体を起こしては興業を行う。リスクテイカーだなあと口を開けると同時に、金だけではないなにか別の魅力がリングにはあるのだろうなあ。そこを確認できた。