odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

前田日明「格闘王への挑戦」(講談社文庫)

 1988年に出たので、著者が「第2次UWF」を旗揚げしてしばらくしたところ。翌年がこの団体のピークで、たしか東京ドームで大会を開いたのではなかったかな(U-COSMOS 1989年11月29日。TVで録画放送されたが、なんと旅客機のハイジャック事件が起きて、半分の試合が放送されなかった)。まあ、このときには日本のプロレス団体に様々な不満をもつファンがこの新しい団体とそのファイトに熱中したのだった。そのときのファンが口にすることのたいていが、この本を基にしていたのだ、とおよそ30年前を振り返り、そう思う。

 同時期に「パワー・オブ・ドリーム」という本も出していて、そちらのほうが文章の密度が濃く、エピソードもたくさんあって読みでがある。とくに、面白いのは2回の海外遠征の話で、イギリスでジョージ・ゴーディエンゴにあったとか、新日本プロレス謹慎中のニューヨークでアンドレ・ザ・ジャイアントとレストランで会い、ワイン一本をプレゼントしたら3本お礼がかえってきたとか(例の三重の試合のあとのこと)。ここらの海外の事情がとても面白い。読書にはこの本より「パワー・オブ・ドリーム」を推奨。
 この本で著者が主張するのは、当時のプロレスがショーマンシップに流れて、「リアル」「本当の」レスリングをやらなくなった、「ごちゃごちゃいわんと誰が一番強いのかたしかめればええのんじゃ」で実力をリングで見せつけろ、それをするのが俺らのつくったUWFという団体である、ということだ。自分のようなぼんくらな目では主張が試合に反映しているかはよくわからなかったが(なにしろTV中継がない、ビデオは高い、暇がないので見に行けない)、今は様々な試合について検証されていて、いろいろ確執や取り決めがあったということになっている。まあ、その詮索はしないでおこう。
 さて、著者はプロレスラーとしては破格の人気を得たが、どうやら経営ではさまざまな失敗をしてきた。第1次と第2次のUWFが倒産ないし解散し、そのあとの「リングス」も活動期間10年で解散した。それぞれの引きどきのみきわめはよかったのか、本人は負債を持たずにすんでいるみたいなのは聡いところがある。まあ、プロレス団体の経営は難しいのは、和田京平の本でも明らか。ここではレスラーの視点で見てみようか。wowowという衛星放送が事業を始めたのは1990年のことだったか。コンテンツ不足になったときに、見出したのが著者の率いる「リングス」で、月1回の興業を生中継で放送した。この放送で人気の出たのが、ロシアのコマンド・サンボ・マスター、ヴォルク・ハンと、オランダのこわもての用心棒、ディック・フライ。満員の観客をそのときには集めたのだが、数年後から人気は急速に衰える。著者が膝を悪くして半年以上試合ができなかったとか、K-1ほかのコンテンツに人気をさらわれたとか、いくつかの原因がある。自分が重要と思うのは、選手の数が少なくてマンネリに陥ったこと。著者、ヴォルク・ハン、ディック・フライが対戦する興業がいったい何回繰り返されたことか。1980年までのこの国のプロレスは、ガイジン選手を2か月ごとに入れ替えることでマンネリ化を防いだが、招聘ルートが狭くなるにつれて同じ時期に同じ問題をほかのプロレス団体も抱えてしまった。そうなった理由は、アメリカのプロレスがWWE(当時WWF)の寡占状態になり高額な契約料を払うことができなくなったからだ。単独契約できる個人レスラーは極めて少ない。団体の数が増えて、それぞれが選手を独占しようとする。そのうえにトップ選手の高齢化が進み、10年くらいでファンの関心が薄れてしまう。そこをクリアするのはすごく大変だ。

  

 さて、著者にはもう一つ重要な文書がある。雑誌「現代思想」の2002年2月臨時増刊「プロレス」。インタビューの中で自分が在日コリアンであり、1986年ごろに帰化したことを報告している。このようなカミングアウトはスポーツ選手や芸能人などで初めてというわけではないが、多くの人が躊躇する中でこの行為をしたことに敬意を表する。それを知ったうえで、1988年の本書を読むと、彼がそのときに書かなかったことの意味がよくわかる。

 どうでもよい知識。
 第1次UWFの旗揚げ第一戦は1984年4月11日埼玉県・大宮スケートセンターで行われ、メインエベントは前田日明vsダッチ・マンテルだった。二流のガイジンレスラーで、前田はジャーマンスープレックスで一蹴。その後来日することはなかったこのダッチ・マンテルがいま(2014年)、WWEでZeb Colterという愛国マネージャーとして活躍中。人生、いろいろですねえ。