odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

柴田南雄「グスタフ・マーラー」(岩波新書) マーラーの音楽の特長は歌の復権と、メタミュージックであること。1980年代マーラーブームの記録。

 1984年10月に販売されて即座に買い、翌日には読み終わり、そのあと数年間は繰り返し読んで内容をすっかり覚えてしまった。マーラーの作品や生涯のみならず、ここには著者の50年間に経験したこの国のマーラー受容史も書かれていて、録音のない物故者の名前を覚えてしまうくらいに。当時はLPにしろCDにしろマーラーの作品は高額でなかなか買えず、著者の薦める演奏をいつ購入できるかと気をもんだものだ。作品評価も含めて、この本に甚大な影響を受けているので、冷静に読むことができない。

 20世紀の前半、マーラーの作品は不遇になる。それが復活するのは1960年代の西欧での連続演奏会と同時代の現代音楽での引用(ヘンツェとベリオが代表)、そしてLRの普及。1970年代にはこの国にもブームが到達していた。もっとも、通俗的に知られたのはバブルの時代の洋酒のコマーシャルで大地の歌が使われたときだろう。
サントリー ウイスキー ローヤル - ♪ マーラー大地の歌

 ちなみにこのCMで使われた演奏はジュリーニ指揮ベルリン・フィルで、テノールはフランシスコ・アライサ。1984年のセッション録音だが、その直前のライブがFMで放送された。のちCD化。セッションとライブではテンポのとり方に大きな違いがあって(セッションは全曲63分、ライブは59分くらい)、当時のクラオタ(という言葉はなかったが)は話題にしたものだよ。
セッション盤

ライブ盤

 さて、マーラーの音楽の特長は歌の復権と、メタミュージックであることだそうだ。前者は交響曲に声楽を多用したことで、後者は引用や借用を使うこと。音楽の歴史、幼児の記憶、同じ作曲家の他作品との関連など多層な時間や歴史を一瞬に想起させる力をもっている。研究者にとっては、西洋「古典(クラシック)」音楽の見直しをせまる重要な視点を示すのだそうだ。そこに、個人的な喜怒哀楽を誇張して表現して聴衆に自分の音楽であると思わせるのも含まれるだろう。そのような歴史と感情を想起させる音楽として、聴衆はマーラーを選び、好んだ。といえるかな。
 書かれて30年たち、マーラーの情報も増えた。この本に書かれなかったことを補足しよう。
・当時、未出版の作品が録音されるようになった。「大地の歌」のピアノ版(1989年5月15日の世界初演の様子がのちにNHK芸術劇場で放送され、著者が解説を務めた)や「嘆きの歌」の全曲版など。マーラーによる他人の作品の編曲も聞ける。バッハの管弦楽組曲ベートーヴェン交響曲シューベルトの「死と乙女」弦楽合奏版、ウェーバー「三人のピント」補作、ブルックナー交響曲第3番ピアノ連弾版など。
マーラー作品の他の人による補作や編曲。まざまな研究者による第10番の補作が代表。1984年当時にはクック第2版がでていたが(カトリーヌ・アルレー「白墨の男」創元推理文庫に言及がある)、まだ研究途上のイロモノという評価。それが21世紀にはマーラーの代表作にまで評価があがった。室内楽編曲では、4番・大地の歌・9番、ピアノ連弾では1番(なんとブルーノ・ワルター編曲)・2番・6番・7番、オルガン編曲では5番など。まだまだありそう。
・アルマの作品の録音がでてきた(これを聞くと、グスタフが作曲をやめさせたのに怒りを覚えるほどの良い出来)。
 そのうえ、CDのデフレも著しく、30年前には一つの交響曲のCDを買う値段を払えば全曲セットを購入できる。その結果、自分の部屋にはテンシュテット、ラトル、ギーレン、ジンマンの交響曲全集が並んでいる。かつての夢があっけなく実現してしまった。
 著者は作曲家でもあり音楽学者でもある。そのせいか、この小著でもマーラーの同時代に記述を限定しないで、より大きなパースペクティブ西洋音楽史をみている。そちらはおいておき、20世紀のクラシック音楽の演奏史を次のように分ける。指揮者は多分こんなものだろうと、自分が勝手に付け足した。
・後期ロマン主義(1890-第1次大戦終了まで): ワルターメンゲルベルク、フリードなど
新古典主義(両大戦間): クレンペラークーベリックショルティカラヤンなど
・前衛音楽(1950-1970): マデルナ、ロスバウト、ブレーズ、ギーレンなど
・新ロマン主義(1970以降): バーンスタインテンシュテットアバドマゼールシノーポリなど
 そのあとを私見で描くと、新ロマン主義の盛隆は1990年まで。そのあと、新古典主義バックラッシュにあう。主導したのはチェリビダッケとヴァント。この長命、遅咲きの二人が正確さと緻密さを要求して、ロマン主義的な解釈を拒みながら、巨大なスケールの音楽をつくった。その象徴が二人の得意とするブルックナー。これで新ロマン主義演奏家の影が薄くなる(この間目立ったマーラー演奏はなかったというのが自分の記憶)。チェリとヴァントが亡くなった後、新ロマン主義は復活しない。ピリオドアプローチが席巻していて、マーラー演奏も影響を受けて、細かいところがよく聞こえ、リズムが生き生きとした、清潔で健康的な演奏になった。代表はノリントンとジンマン。若手の傾向はよくわからない。こんな感じ。
 かつてはマーラー交響曲はよく聞いていたけれど、彼の亡くなった年齢を越えてしまうと、感情の浮き沈みの激しい音楽はもううっとうしい。後期ロマン主義や新ロマン主義の表情過多で濃厚な味付けの音楽は胃にもたれる。なので聞くのはコンパクトでこじんまりとした4番と人生を全面肯定している8番ばかり。ええ、大地の歌以降の作品は傑作であるとは思いますがね。もう体力、気力がないのですよ。

  

 余談。マーラー交響曲は、習作(嘆きの歌、1番)、角笛交響曲(2〜4番)、器楽交響曲(5〜7番)、晩年様式(8番・大地の歌・9番・10番)と分類されるのがふつう。その通りだけど、自分はひとつの妄想を持っている。それは、いくつかの交響曲は3つでひとつのセットになっていて、全体としてダンテ「神曲」の地獄・煉獄・天国となっているという見方。典型的なのは6番(地獄)・7番(煉獄)・8番(天国)。無理やりだけど、2番(地獄)・3番(煉獄)・4番(天国)もそうかもしれないと思っている。その見取りをもつようになったのは、10番第3楽章が「煉獄」の副題をもっているから。なので、9番(地獄)・10番(煉獄)の構想を見て取り、未着手のままになった11番は「天国」であり、長調で声楽付きの大規模作品になっていたのではないかと妄想する。それはどんな音楽でありうるだろう。9番の室内楽のような緻密さと10番の新しい書法をもっている、弟子筋の12音音楽の作曲者すら書けなかった大作であったのではないか。