odd_hatchの読書ノート

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伊東信宏「バルトーク」(中公新書)

 ハンガリーという場所を現在の国境線で考えるとおかしな認識になりそうだ。第1次大戦の敗戦まではトランシルヴァニアやスロヴァキア、トルコの一部がハンガリーであったし、それ以前となるとまたハンガリーの指すものはあいまいになってくる(オーストリアハンガリー二重帝国を念頭にいれている)。そのうえ、19世紀のドイツ系の作曲家の書いたさまざまな「ハンガリー」もの(ブラームスやリストの)は、ジプシー音楽を模倣したもの。ドイツ―オーストリアからは山脈を一つ越えたところにあるハンガリーは辺境であり、エキゾティズムと差別の対象であったといえそうだ。そのような認識は、この国にも反映しているだろう。

 バルトーク・ベラ(1881-1945:この国と同じく姓―名の順なのでこの表記)をハンガリーの民謡研究家として見るのがこの本。したがって、管弦楽曲・協奏曲・舞台音楽・室内楽などの作曲家の面はほとんど表れない。作品名すら現れない。その認識は、彼の生活の時間のほとんどが民謡研究に使われ、ハンガリーや亡命先アメリカで民謡研究・比較音楽学の研究ポストを手に入れようとしていたことで補強される。シェーンベルクみたいに作曲家や演奏家のポストは狙っていなかった。
 さて、あまり知られることのない民謡研究はコダーイとの出会いのころ1905年に始まる。翌1906年から18年まで採集に時間をかけた。領土が縮小してからは採譜と分類に注力する。その間に、作曲と教育の仕事がはいり、ときに演奏旅行もあって、誠に多忙な時期だった。民謡研究はときおり出版されたが、全貌がはっきりするのは死後であり、1980年代以後に新資料が発見されるなどして活発になる。
 上記のようにハンガリーはその範囲があいまいなうえ、ドイツ音楽の影響を大きく受けたり、領土を接するトルコ、国内を行き来するジプシー(現在では差別的用語として忌避されるが、バルトークの時代のニュアンスを含んでいるので本書ではこの表記としている。ここでも踏襲)の音楽も混入している。そのために民謡の源流とか本質というのはなかなかみえない。バルトークの民謡研究の意図は、愛国的・ナショナリズムの気分から生まれたらしい。それは当時の政治的状況では自然なことと見える。第1次大戦以前はオーストリアの属国、敗戦後の独立後はナチスの影響を受けたファナティックな愛国主義があった。バルトークは、それらの政治潮流が「ハンガリー」というネーションをあいまいな気分やカテゴリーにしていたのを、民謡を通して確固とした具体的なものにする。今の視点からすると、バルトークの試みからは「ハンガリー的」なるものは抽出されないし、それはバルトークの胸中にしか存在しないハンガリーなのだと批判は可能(そういう批判は第2次大戦後の民謡研究の継承者からでているみたい)。まあ、自分としては彼のこだわりには感服するという感想までにとどめる。
 彼のこだわり、正確さへの執念、規則正しい生活は、たとえばアガサ・ファセット「バルトーク晩年の悲劇」(みすず書房)でもよくわかる。この本の感想は吉田秀和が書いていて(たしか「音楽」朝日文庫)、耳の良さ・自然への感応力などに感嘆していた。一方で、気難しく、他人を受け入れがたく、他人の欠点に対して容赦ないなどの複雑な人格は、なかなか理解しがたい。人格の奇矯さはアメリカ亡命後の不遇となって現れる。とはいえ、彼の才能には多くの人が目をかけ、助けを差し伸べていた(支援者にはライナー、メニューイン、プリムローズらがいた)。
 彼の音楽は優れていると思うのだが、そのとげとげしく神経質な響きや、複雑で強いアクセントを持つリズムや、ダイナミックの急激な変化などでこちらの気分がささくれ立ってくるので、聞くのがしんどくなった。それもあって、人と作品にすこし距離を置くようになった。
 あと、この本でとりわけおもしろかったのは、ブタペストで活躍するハンガリー人たちと、大戦間のヨーロッパ知識人の交流の深さと意外な縁。民謡研究を通じてはコダーイ、ドホナーニらが同僚で、シゲティが親友、知的関心ではバラージュルカーチ(バルトークは一時期ルカーチの家に住んでいた)などと交友があった。ヴァイオリン演奏家のイェリー・ダアーニ(女性)を通じてラヴェルとの縁がある。バルトークは2曲のヴァイオリン・ソナタを、ラヴェルは「ツィガーヌ」をこの女性に献呈している。ヴァイオリンソナタをパリで演奏した後には、二人のほかストラヴィンスキープーランク、ミヨー、オネゲルルーセルシマノフスキーらが集まったというのだ。当時の音楽家を一人でも取り上げると、意外な交友関係が数珠つなぎに広がっていく。それは1920−30年代のヨーロッパを勉強するときの楽しみのひとつ。

バルトーク―民謡を「発見」した辺境の作曲家 (中公新書)

バルトーク―民謡を「発見」した辺境の作曲家 (中公新書)

 今年(2014年)のエントリーはこれでおしまい。ストックが不足してきたので、年末年始に読みためます。