odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

H・G・ウェルズ「宇宙戦争」(ハヤカワ文庫) パンデミックと総力戦において、力を持たない市民・庶民は暴力に対して徹底的に無力だという悲観主義SF。

 19世紀末の火星大接近のあった夜、火星の表面で爆発が観測された。それから数日後、ロンドン南西部の郊外に円筒形のロケットが着弾した。その中からおぞましい三脚台に円盤のついたような歩行機械が現れ、高熱ビームと毒ガスで人類を襲撃する。どうやら、寒気で食料不足になった火星人が地球を襲撃し、食料となる人類を収穫するためらしい。軍隊の大砲は効かず、人々は逃げ惑う。「わたし」も逃げる途中、妻とはぐれ、火星人を最も身近で観察することになった。それは恐ろしい体験であった。

 1898年の「宇宙戦争」は侵略テーマSFのプロトタイプになった。異星人による侵略はどうしても「宇宙戦争」を意識せざるを得ない。ときには、プリースト「スペース・マシン」(創元推理文庫)のようなオマージュとパスティーシュのからみあったものがあるし、ブラウン「火星人、ゴーホーム」はプロトタイプの設定をひっくり返したパロディになっている。映画では、1953年のパル監督のものと2005年のスピルバーグ監督のものがある。前者は原作のペシミズムを反映していて印象深く(ただし、道中でいっしょになる牧師の扱いは逆になった)、後者は日常が突然戦場になる認識の逆転が印象深い(ただし、家族の別離と再会という原作ではあまり強調されないテーマが全面にでていて自分にはうっとうしかった)。

  

 さて、この小説はすでに多くの人が語っているだろう。自分が付け加えることなどなさそうだが、ほかの人の謂っていることは一切無視して気の付いたところを。
・たぶん初めて「総力戦」を描いた小説。総力戦では戦場と後衛の区別がなくなり、すべての国民が戦争に協力することになり、日常生活が戦争に支配されるようになる。そのような戦争は当時ヨーロッパには実在していなくて、15年後の第1次世界大戦ではじめて。多くの描写(難民、食料不足、行政機能の停止など)はもしかしたらペストほかのパンデミックを参考にしているかもしれない。それでもなお、戦争が日常生活を覆い尽くすことになり、恐怖において平等が達成されるという皮肉な事態を正確に描く。

・総力戦において、力を持たない市民、庶民は暴力に対して徹底的に無力。高熱ビームや毒ガスによって人は簡単に死ぬ。その死体は放置される。このような戦慄するような情景がたんたんと描写されている。「わたし」が廃屋の地下室に閉じ込められたとき、死臭と腐臭は激しかっただろう。いくら19世紀の上下水道のない時代であって日常的な臭いになれていたとしても、耐え難ったはずだ。そのような死体と腐臭の充満する社会は第1位次世界大戦で実現する。あえて言えば、それ以降の戦争や内乱は難民を大量に生み、死体をそここちに放置することであった。そういう点で、この小説は20世紀の情景を先取りしている。

・このような総力戦において、人間性は期待できないというのが、作者の悲観主義の表れか。なにしろ火星人が殺戮を開始した時、人々はパニックに陥る。そこではイギリスのジェントルを発揮するような道徳的な行為や人格は現れない。逃げる群衆はエゴイスティックであり、食料を持つものは値上げか出し惜しみをし、行政や警察の指導には従わず、女性・老人・子供などの弱者をいたわらない。決定的なのは途中で同行することになる牧師補だ。もっとも冷静沈着で、利他的な行為を期待される聖職者がエゴイスティックなふるまいをするのだから。ほぼ同時代にニーチェは「神は死んだ」と形而上学の死を宣言したが、この小説では道徳の根拠である「神が死ん」でいる。
<参考エントリー:20世紀の総力戦から21世紀のゲリラ戦へ>
2018/10/29 伊藤計劃「虐殺器官」(ハヤカワ文庫) 2007年

・道徳の根拠である神が死んだ世界でも人は生きる。火星人という生殺与奪の至高の権力を持つものを前にして、たんに生きている人間は新たなルールで生きることになる。この小説では、戦時統制経済の方法と、兵士の構想する戦時共産主義だ。前者はいうまでもなく国家が国民の生活を統制することになるのであるが、後者では選ばれた強者だけがコミュニティをつくり(それは途方もない権威主義社会である)、弱者は強者に奉仕することで生き延びることができ、労働や奉仕のできないものは捨てられる。なにしろ「敵」が人類やコミュニティの殲滅をもくろんでいるのだから、人権や自由は優先されない。あくまで組織社会の存続が目的であり、最大限に優先される。
(参考エントリー。 東野圭吾「パラドックス13」(講談社文庫)

 このようなディストピアが語られる。自分は作者の人類に対する悲観主義にもっとも戦慄した。しかもその悲観主義から、ソ連共産主義社会やナチス国家社会主義まではそれほど遠くない。同じころにウィリアム・モリスが「ユートピアたより」でアナーキズム的な社会主義を明るい視点で構想したのと著しい対比を示している。
 あとは、この小説は当時の最新科学理論である進化論と細菌学(とりわけ細菌病因説)に影響されていることに注目。火星人の形態や機能は火星という環境に適応する過程で獲得したものである。人類からすると神のごとき強力な暴力を排除するのが、もっとも力ないものと思われる細菌で、人間は無力であるというのが皮肉で悲しい。

    


<参考>

SFの夜明け:H・G・ウェルズ『宇宙戦争』のすばらしい100年前のイラスト(1906年) : カラパイア