1955年に書かれて、1959年に改訂版のでた新書。改訂版がでるにあたって、「昭和史論争」という論争があったと聞く。とりあえずその論争の中身には触れないで、この本を読むことにする。
・昭和史ではあるが、出版された時期を見ての通り、昭和34年までの出来事が記載。主要なテーマは「太平洋戦争」、むしろ「15年戦争」について。この戦争の始まりと終わりをみることになる。1945年の敗戦以降は、現在進行中であり、ソ連と東欧諸国、中国、朝鮮半島の情報が入りづらい時期であったので、記述は簡略になっている。
・「昭和」の記述を開始するに当たり、1926年を起点にしていない。すでに不況、政党政治など昭和10年までの主要なモチーフはあったのであるから、起点はさらにさかのぼることになり、1914年から記述を開始する。そこで明らかになるのは、遅れてきた資本主義国として先行する西洋資本主義国にならって植民地経営をしようとする意図。あいにく、過去に経営した事例を持たないので、どうにも現場で摩擦を生み出すものであったらしい。その政策がのちの20年の決定を縛っていくのがわかる。
・史実は本書を読めばわかるのであって省略。気づいたことは、この国の<システム>(@カレル・ヴァン・ウォルフレン「日本/権力構造の謎」ハヤカワ文庫)のこと。この国では政策を決定するのがある種のシステムによるネゴシエーションの結果。しかもそのシステムには中心が存在しないので、誰が決定者か、責任者か、立案者なのかを見極めることができない。というのも、ほかのファイスズム国家は個人ないしあるグループが全責任をになうような仕組みになっていて、個人ないしグループが更迭されると政策がすっかり変わる。ところがこの国では、<システム>の構成員は簡単に首を切られ、隠居させられ、左遷される。そのことによって政策が変わるかというとそうではなく、過去のだれが決めたかわからない決定が継続する。また、<システム>には達成するミッションやヴィジョンがない。<システム>の維持そのものが目的になっていて、システムの覇権を取ることが構成員の主要な関心になる。なので、外部との交渉や経済政策、ときには軍事戦略が機会主義的、いきあったりばったりの漁夫の利ねらいになる。しかも失敗の責任を取る圧力はないが、挽回することを期待されるのでよりリスクの高い戦略をとるようになる。
・<システム>の構成員はたんに政治家、官僚、軍人だけではなくて、企業経営者であり、地方政治家、地域共同体のリーダーにまでおよぶ。しかし範囲は明確でない。それが<システム>の維持、過去の決定の継続で動き、部外者には権威主義的な抑圧・同調圧力をかけて、従わせようとする。そのような<システム>の完成形が1941年の対米開戦以後の国家総動員体制というわけだ。
・<システム>は1945年に手ひどい失敗をしたが、構成員から軍人を除くことによって生きながらえた。実際、占領中の政府は様々な手を使って、1930年代の支配構造を残そうと画策していた。それは読売新聞編集部「マッカーサーの日本」新潮文庫に詳しい。さらには、1980年代のこの国でも<システム>があるというのが、カレル・ヴァン・ウォルフレン「日本/権力構造の謎」(ハヤカワ文庫)の主題。
・1959年の記述であるので、「帝国主義」「寄生地主」「独占資本」「民主勢力」などの用語が煩わしい。その当時には具体的な意味を持っていたのだろうが、今日からすると粗雑で曖昧な意味になっていて、具体的な対象がわからなくなってしまった。
・あとは、政策決定、推進者である政治家、政党、大企業、軍部などが一枚岩であるような見方とか、民衆運動のうち共産党の記述が他より多いなあとか、経済分析が弱いなあとか、欠点がいくつか目につく。それに、この後に続く約30年の「昭和」の記述がないから、専門家向けの文書になった。補完するのに「昭和の歴史(全10巻)」小学館文庫が推奨できるが入手難。
・いけね、あと重要なのは外国が昭和のこの国をどう見たかということ。たとえば、ミッドウェーやレイテの海戦でこうすれば勝利できたはずという架空戦史があるけど、アメリカのTV局がつくった戦史番組を見ると、戦略・戦術・兵器などにおいてアメリカが凌駕していて勝利の見込みなどなかったというのがわかる。そういうのはたくさんあるので、この国の人が書いた歴史書だけでは情報も物の見方も不足することになる。これは自分もそうなので、どこかで補完しないといけない。
エンターテイメント小説ではたとえば、F・ポール・ウィルソン「黒い風 上」(扶桑社文庫)
奥泉光「グランド・ミステリー 下」(角川文庫)