あれから2年、木谷上等兵が原隊に復帰した。その空白の2年間を知るものは数少ない。時期は1944年1月。イタリアがファシスト政権を倒して連合軍に降伏し、バジリオ政権が樹立したころだ。この国の戦争は各所で膠着状態。その間、この国の戦力はどんどん消耗し、国内の部隊は櫛の歯が抜けるように海外に派兵することになっていたからだ。そのうえ前年の秋に学徒動員が決定し、大学の修学年限を短縮された主に文科系の学生が大挙して動員されていて、この京都にある部隊にもすなかからぬ学生上がりの初年兵が配備されていた。隊に残るのは、成績が悪くて後方待機になっている古参兵(まあ、軍規や命令を暗記できないとか、兵隊の基本動作に難があるとか、特技を持たないので歩兵以外の使い道がないような連中)ばかり。物資の欠乏は軍隊でも常態になり、飯・服・銃弾・暖房機器などにまで及ぶ。
この小説の現在が描こうとしているのは、昭和10年代の帝国陸軍をドスト氏「死の家の記録」のやりかたで全体をとらえようとすること。兵営の略図に、中隊内務班の寝台近辺の挿絵までついているほどの念のいりよう。もちろん絵図だけでは全体はわからないのであって、起床から就寝までの歩兵部隊の日課が細かく描写される。そこに、炊事や酒保の飯の話題に、便所と下痢の糞の話題があり、外出を待ち焦がれようやく外出した時には遊郭に出入りする女の話もある。開高健がいうように兵隊の小説には飯・糞・女はつきものであり(洋の東西、時代を問わずにそうであるらしい)、そこはきちんと押さえている。
ただ、この国の兵隊小説が西洋のそれと異なるのは(といって読んだのはそれほど多くはなく、むしろ戦争映画を見ての印象になるのだが)、軍隊内部の強力な上意外達のピラミッドの構造。そして上から下へのいじめ・パワハラ。および炊事や経理における日常的な横領に背任、収賄。軍隊を批判的にみる小説では、どうしてもこのような軍隊内部の腐敗に暴力が出てくる。そこでは、外部への配慮がでてくることはまずない。戦場で物資調達をするとか情報収集するとかはぐれて孤立したときとか、特別な機会がないと軍隊の外は現れないのだ。戦争に敗れて帰還した兵士たちの述懐はたいてい上官の暴力やいじめに対する怨嗟化、物資の欠乏による飢餓感。敵との遭遇や戦場でのミッション達成の困難、言葉の通じない人とのコミュニケーション不通などは、まず書かれない。それだけ、この国の軍隊は異常な監獄状態になっていたといえる。
そのような軍隊内部の腐敗をみるのは、二人の眼である。
一人目が木谷上等兵。2年前に窃盗事件を起こし、素行不良であるものの戦局悪化があるせいか、仮釈放となった。彼は市井の商人の息子。父が早逝したので15歳で奉公に出て、行く先々で問題を起こしてきたという不適応者。地頭はよいようだが、進学できず奉公勤め。社会の圧迫が彼を偏屈にしていて、軍隊の暴力が彼の行為を粗暴にしている。その目でみるのは、古参兵や尉官など兵隊を直接指導する上官の日常的な暴力。初年兵に規定以外の作業を押し付け、些細な不慣れによるミスに暴力をふるい、彼らの権利(外出とか酒保での購買とか)を奪う。古参兵や尉官がそのようにするのは、彼らが同じような「教育」を受けたからであり、部下ができたとたんに意趣返しのように同じ行為をするのである。ここらは現代の大学や高校のスポーツ部でも見かけること。あるいは、親子の関係でも。
二人目が、三年兵の曾田上等兵。すでに外地の勤務を経験している古参兵。インテリ(京都大学出身)で会社勤めの経験もある。しかし、3年の軍隊勤務で事務能力や思考能力は喪失したと感じている。彼は計算ができ、字がうまいので経理部に入っている。彼の見るのは、上官(中尉や大尉クラス)の腐敗。軍隊物資の横流し、金品の横領、軍需会社との収賄など。それはより高位の上官への賄賂に使われる。まずは戦地に派遣されないことであり、次には出世すること。それをうまくやると尉官クラスで家を建てられるほどの金を得られるらしい。
木谷も曾田もそのよな腐敗した軍人、兵隊を見る。批判的であっても彼らの言葉は上に届かない。通常の命令指示系統では部下からの提言は認められない。せいぜい私的な会話でひそひそ声で語るくらい。組織のピラミッドは彼らの反抗を承認することはなく、むしろピラミッドのなかのがっちりした「和」とか派閥によって排除される。批判的にみることは、彼ら自身の立場を危うくし、営倉に入り、軍隊刑務所に入り、戦地に飛ばされることになる。そのまえに、「村八分」状態になって、彼らが孤立するように組織のしくみが働く。
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