odd_hatchの読書ノート

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大岡昇平「俘虜記」(新潮文庫)-1

 1948年に発表した連作小説。断続的に発表されて、のちに一冊にまとめられた。
 戦前に帝国大学仏文科を卒業した男がいる。翻訳の腕を買われていくつかの会社で棒給生活者をしながら、スタンダールの研究をしていた。状況が一変するのは、1944年3月に36歳の高齢で招集されたこと。3か月の訓練ののち、マニラに送られる。幸い、米軍はフィリピンを決戦の場にしなかったので、大規模戦闘には合わずに済んだが、マラリアに罹患し、部隊から捨てられる。山地で昏倒しているところをアメリカ兵に発見され、1945年1月に俘虜となった。

捉まるまで ・・・ 昭和20年1月、フィリピンのミンドロ島山中で俘虜になるまで。米軍の主要な目標地ではなかったので大規模な戦闘はなかったが、マラリアに罹患して多くが死亡した。「私」のその一人で、部隊から追放され、ひとりで山中をさまよい、一昼夜ののち人事不省になっているところを米軍兵士に見つけられる。そこに至るまでの詳細な記録。
(米軍兵士と山中ですれ違う。そのとき銃で撃てたのに撃たなかった。自殺しようとして実行できなかった。なぜ「殺さない」の行動をしたかをくどいほどに考える。もちろんいくつかの言葉で説明できることではないが、「殺すな」を選択する/結果として選択するまでは、極めて明晰に書かれる。その文章で、「私」の考えることに神秘@ウィトゲンシュタインはひとつもない。

サンホセ野戦病院 ・・・ マラリアの治療を受けながら簡単な尋問。問題になったのは「バターン死の行進」。英語をしゃべれる俘虜として珍重される。レイテ島にあるて俘虜収容所に移動する。ここで同朋(日本兵の俘虜)を見て、羞恥を感じた。
(一人が異邦人の中にいる状態では気おくれがないのに、同朋を異国の地で発見すると羞恥の感情が生まれる。自分も同じ感情を持ったことがあるので、激しく共感する。)

タクロバンの雨 ・・・ タクロバンの収容所、そのうちの病院棟にはいる。ここでは俘虜における平等が実現しているが、米軍の権力を獲得して支配しようとするものやそれにおもねるものがいる。「私」はそれに距離をとり、なぜ「撃たなかったか」「殺さなかったか」を考えるか、聖書を読むか。「私」に関心をもつ米兵が現れる。
(「私」はアメリカの民主主義や平等の制度に触れて困惑する。日本および軍の権威主義や官僚制だけの経験、それに書物の知識だけだと、西洋のしくみは理解しがたいものであるのだろう。他の俘虜はそのように困惑することなく、アメリカを権威としてみて、「生活の場」に落とし込んで、必要と便宜に敏感になる。)


 ここではマラリアに罹患して、撤退する部隊に捨てられ、山地やジャングルをさまよう状況を描く。そこでは、軍隊という組織がプロジェクトを運営することができなくなっていること、リソースの不足が招集兵に押し付けられ、飢餓や病気などで死んでいったこと、規律を失った組織のメンバーが道徳的な退廃を示していることなどがわかる。
 しかし、もっとも繰り返し回想されるのは、ある叢でのできごと。マラリアにあえぐ「私」は敵兵の存在を先に感知する。銃を構えているさきに、無防備な敵兵が姿を現す。遠くで、銃声が聞こえ、敵兵は踵を返し、姿が見えなくなってしまう。このとき、「私」は敵兵を打つチャンスがあったにもかかわらず、撃たなかった。殺さなかった。それはなぜか。
 そのために、この数秒程度のできごとを何度も反芻する。その直後において、飢餓のために山中で転がっているとき、俘虜収容所の病人棟で横たわっているとき。叢の熱い空気、風、「私」の装備、「私」の体調、なによりも敵兵の童顔、皮膚、頭髪、まなざし、表情、行為などなど。それを思い返しながら、撃たなかった理由を考える。臆病?同情?モラルの発した否定命令?思想的決意?神意? さまざまな仮説を考え、ことごとく否定される。残ったのは、単に「撃たなかった」という事実のみ。そこに意味づけや理由を発見しようとして、何も見つからない。このあと、「私」は俘虜収容所で人々を観察し、彼らの行為を見て、即座に判断や善悪をつけていく。もともとは心理の説明は可能で、行動や表情や周辺状況を観察すれば、行為者の心理はわかると考えるものである。しかし、この数秒間の行為には、重大性があるにもかかわらず、彼の分析や観察からは心理を解明できない。明晰であり論理的であろうとしつづけたさきに訪れる無=意味の時空間。それが「神秘@ウィトゲンシュタイン」なのだろう。起きたことで観察し逃したことはない、すべては明晰な光の下にある。でも、そこには意味がない。

2015/04/08 大岡昇平「俘虜記」(新潮文庫)-2
2015/04/09 大岡昇平「俘虜記」(新潮文庫)-3