odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

エラリー・クイーン「災厄の町」(ハヤカワポケットミステリ)-1 探偵が事件に関与すると、理性の曇りをもたらし、だれの利害のために働くのかという戸惑いを生み出す

 エラリーはニューヨークの喧騒をさけて(戦争がはじまったので)、列車で2時間くらいのところにある田舎町ライツヴィルに向かう。そこで小説を書くつもりで、町の創設者ライト家の「災厄の家」に下宿することにする。ホテルやアパートが満杯になっていたためだ。戦争の開始とともに、軍需品製造が国家施策になり、1929年の不況から稼働停止していた工場が開けられ、失業者が続々と集められた。生産設備と労働力が遊休状態にあり、そこに国家の公共事業投資が大幅にアップしたことでアメリカの経済は成長したのだった。いっぽう、この国では・・・

 閑話休題。ライト家にはジョンとハーミアンという夫婦がいて、三人の娘がいる。長女ローラは駆け落ちして、夫に先立たれる。家に帰ることができずライツヴィルの場末でつましい生活をしている。アル中気味。次女ノーラは有望そうな青年ジムと結婚することになり、新築の家をプレゼントされていたが、結婚式の当日にジムが失踪してしまうという悲劇。以来ひきこもり。三女パトリシアは高校生かその卒業したばかりくらい。おきゃんで行動力ある娘。長女と次女のスキャンダルのおかげで、ライト家は不吉なあだ名を頂戴している。エラリーは変名で下宿していると、3年ぶりにジムが帰還。そしてノーラと一緒にすむことになる。あるとき、エラリーとパトリシアはジムの本に差し込まれていた3通の配達されなかった手紙を発見する。そこには、妹にあてて妻の具合が悪くなり、ついに正月になくなるという内容であった。二人は手紙を元に戻し(毒薬学の本に挟まれていた)、ジムとノーラを監視する。すると、手紙の通りにノーラがヒ素中毒で寝込む事件がおきる。そこにジムの妹ローズマリーがやって生きてからジムの態度が急変。毎晩飲んだくれ、借金をしたり、ノーラの宝石を質屋に持ち込んで換金したり。そして、大みそかのパーティの夜、ジムがノーラのために作ったカクテルを妹ローズマリーがひったくって飲み干すと同時に崩れ落ちた。急性ヒ素中毒により殺害。
 もちろんジムが疑われ、一級容疑者としてとらえられ公判になる。小説の後ろ半分は公判の様子。そこではジムが薬局でヒ素入りの殺鼠剤を買っていたことがわかる。一方、ノーラはジムの子を宿していたが、体調の悪いため、出産は難産となり、ついに子供を残してノーラは死亡。ノーラの葬儀のときに参列を許可されたジムは突然逃げ出したが、自動車の運転を誤って崖から転落してしまった。こうして事件は落着する。しかし・・・
 この小説の面白さは探偵エラリーが事件に関与してしまうところ。それまではクイーン警視に持ち込まれる事件に鼻を突っ込み、事件の関係者と仲良くあることはあっても、現象としての事件には傍観者・第三者の立場にたてた。いわば「抽象的な眼」「利害関係を持たない第三者」であることができた。そのような立場だと、理性が十全に発揮できる。ところがここでは探偵は事件の関係者になる。とりわけ重要な証拠である配達されない3通の手紙の情報を隠匿したことで自分に嫌疑が降りかかることになる。そうなると、「抽象的な眼」「利害関心を持たない第三者」であることができない。自分の判断や行動は他人に影響を与える(無実の人を容疑者にするかもしれない、苦痛の中にある人にさらに苦痛をもたらすかもしれない、時には自分自身が容疑者として拘束される可能性がある、など)。それは理性の曇りをもたらし、だれの利害のために働くのかという躊躇を生み出すことになる。神の化身として世界に秩序を回復する全能の力は探偵からは失われて、生身の人間として能力が限定されてしまう。このあたりがたぶん新しかったこと。(「九尾の猫」の末尾で、フロイトと思しきセリグマン教授による「神はひとりであって、そのほかに神はない(マルコ福音書12-32)」というエラリーへのアドバイスはたぶんここにかかわる。ただ、これはイエスの言葉ではなく、聖書学者のことばで、たぶん旧約聖書のどこかからの引用。)
 そのためか、犯人ももはや超人であることができない。復讐やら資産の獲得やらさまざまな思惑はかわらないにしても、事件の全体を構想し一人で不可解な状況をつくることができない。世界を解体するような混乱を持ち込む力は失せている。事件の複雑さは犯人が構想したものではなく、たんにほかの人の関与や偶然のできごとで混沌としたため。それはすなわち犯人の意図を読む、犯人と探偵の知的な一騎打ちをするという古典的な構図も無効にすることになる。
 ほかの人の議論などを参考にして以上を記述。
 面白いと思ったのは、1942年作のこの小説がアイデアの宝庫であるということ。放蕩息子が帰還して家を混乱に陥らせるというのは「フォックス家の殺人」だし、可憐なパトリシアがエラリーに付きまとって探偵ごっこをするのは「ダブル・ダブル」だし、殺人事件が起きたために村人がライト家を誹謗中傷するというのは「ガラスの村」だし、興奮した村人がジムにリンチを加えるというのは「九尾の猫」だし、夫婦間で進められる暗殺計画というのは「緋文字」だし。という具合に、この後の創作の多くはこの「災厄の町」の変奏曲ということができる。派手な犯行トリックはなくて、真実から目をくらまされることになるのは役割についての思い込み、というのも、その後の諸作で変奏されるアイデア
 もうひとつは、父権のある家に三人の個性の異なる兄弟姉妹がいて、彼ら全員がそろったところから、家の内部に混乱が起きてくるという構図がドスト氏の「カラマーゾフの兄弟」に似ているように思ったこと。飲んだくれの長女ローラは過去ばかりにこだわり、夫への疑惑で体調を壊すノーラは現在に目を向け、若い三女は婚約者を疎ましく思い自分の未来を考える。それぞれが、ドミトリー、イワン、アリョーシャに似ているなあ、と。そこに都会風の不道徳で遊び好きのジムの妹ローズマリーがでてきて、スメルジャコフみたいに思った。喧騒の酒場で、飲んだくれがわめいている中で、エラリーが二人に真相を語るというのも、イワンとアリョーシャの大審問官の場面そっくり。まあ、似ているのはここまでで、実際の役割はドスト氏の小説とはまるで違うので、妄想です。ほんのわずかな不満は、ディテールの書き込みが類型的になっていることかな。まだまだ登場人物たちは人形じみていて、なにかのストックキャラクターみたいなんだ。これが克服されているのは「十日間の不思議」「フォックス家の殺人」「九尾の猫」なのだろう。


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