odd_hatchの読書ノート

エントリーは2200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。

エラリー・クイーン「災厄の町」(ハヤカワポケットミステリ)-2 クイーンの執筆方法の変化

 クイーンの執筆方法は長らく謎(自分の知識は1975年くらいで止まっている)だったが、次第に資料が出てきて、わかるようになってきた。簡単にまとめると、
1.オリジナルの「エラリー・クイーン」は、フレデリック・ダネイ(Frederic Dannay、1905年10月20日 - 1982年9月3日)とマンフレッド・ベニントン・リー(Manfred Bennington Lee、1905年1月11日 - 1971年4月3日)。ダネイが小説の梗概(ストーリー、プロット、キャラクター、トリックなど)を作り、リーがそれをもとに小説化。原案と執筆の分担制になっていた。
2.最初のうちは、近くに住んで話し合いで調整してたが、しだいに窮屈になったのか、二人は離れて住むようになり、打ち合わせに電話や手紙を使うようになった。
3.それも亀裂が入るようになる。ダネイが映画の台本、ラジオ番組にかかわるようになるあたりから。作品でいうと、「十日間の不思議」と「九尾の猫」、そして「悪の起源」あたり。この二人の合作は、「最後の一撃 」1958年が最後。
4.このあとリーはライターズ・ブロック(小説が書けない病)になってしまう。
5.そこでダネイは自分の作った梗概を別の作家に書いてもらい、「エラリー・クイーン」名義で出版するようになった。シオドア・スタージョンやエイヴラム・デイヴィッドスンが協力。これはハードカバーで出版。ほぼすべてが「エラリー・クイーン」名義で翻訳されている。なお復調してきたリーはひさびさにダネイとの合作で「顔」と「孤独の島」を書いたらしい。
6.いっぽうリーは、中堅のペーパーバック・ライターが書いた作品を「エラリー・クイーン」名義で出版する。ボスのリーにプロット・メモを提出→それが通れば小説化→リーがゲラ をチェックして朱を入れる→最終チェックを受けて完成した決定稿を納品、 というプロセスのもよう。20作くらいあるらしいが、「二百万ドルの死者」「青の殺人」が翻訳された程度。
エラリー・クイーン&バーナビィ・ロス〜PART13〜
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/mystery/1366540198/
の書き込みを参考にしました。
 人によっては、5以降の作品を「エラリー・クイーン」のものと認めない原理主義というか厳格派もいるというが、自分はダネイかリーが編集に関係しているものであればそれはチーム「エラリー・クイーン」の作品として認めるべき、とくに原案がダネイのものは重要な問題を提起していて、とりわけ興味深いからそれを除外することはできないと考える。まあときに違和感というか、なんか変だなと感じる作品はあるけどね。

 こういうことを考えるのは、「災厄の町」から作家クイーンの考える「探偵」のありかたが変化していったと思えるから。それまでのエラリーは、理性と法治主義の体現者であった。すなわち、近代市民社会ではこのふたつ(理性と法)が支配する。過失や故意の人権や所有の侵害は、それを行った人格(個人、法人ともに)は責任を取らなければならない。そのために立法と司法の機関があり、責任を免れようとする人格を捜査し、責任を追及する。ときに警察の捜査を逃れる「不届き者」がいて、それを理性でもって見つけだし司法に差し出すのが探偵の役割だった。なぜ「探偵」がそれを実行できるかというと、彼は事件という人間の関係において「公正な観察者」「利害関係を持たない第三者」の立場にたって、事件と人を眺める。そこでは探偵の正義は社会のそれと一致している。探偵とは近代市民社会を存立する条件をもっとも備えた人格に他ならない。
 しかし、とクイーンは考える、そのような理性の探偵は戦争後にありうるのだろうか。探偵の「公正な観察者」「利害関係のない第三者」という立場は神なき時代の神にほかならないのだが、そのような人格はありうるのか。
 というわけで、「災厄の街」以後、作家クイーンは探偵の在り方を再検討する。その際に、彼は3つのケースで考えた。
1)探偵を事件の関係者にする。「災厄の町」「十日間の不思議」「緋文字」など。ここでは、クイーンは事件の関係者から依頼され、彼らの立場に立つことを余儀なくされる。すると、事件の利害が彼に降りかかり、公正な観察者や第三者であることができなくなる。この立場であると、ハードボイルドの探偵とほとんど差がつかなくなる。エラリーは事件の情報が入手できなくなるので(親父さんが登場しなくなるので、警察の情報ははいらないのだ)、行動しなければならず、人を観察しなければならない。エラリーが苦しいのは、人との関係が情に基づいているので、事件から抜けることができない。金だけの関係のリュー・アーチャーはドライでいられるのだがね。自分の都合で関係者との縁を切れないエラリーは自分の行動の正当性を裏付ける倫理を考えなければならなくなる。
2)理性や法が支配しない場所で、探偵する。「ガラスの村」「九尾の猫」「第八の日」「帝王死す」など。ここでは、特殊状況のために法が機能しない。権力も介入できない。そのような場所で理性がどこまで通用するか。成功する事件もあるし、失敗する事件もある。
3)できごとの表象から意図を読み込み、事件を見出す。「十日間の不思議」「ダブル・ダブル」「盤面の敵」「悪の起源」など。ここでは探偵は理性や法の使い手ではない。彼や関係者のまわりにおきる互いに関係のないような出来事から、意味を見出し事件を構成する。このとき、探偵は理性を使った観察者ではなく、なにものかの意思をできごとから読みとる予言者になっている。そのとき、事件の物証や関係者の証言は問題にならない。重要なのは、探偵がどのように世界を読み取ったかだ。このような「探偵」を行うとき、関係者は沈黙して探偵の言葉を聞かなければならない。彼の宣託がまるで浮世離れしたものであっても、予言に逆らうことはできない。
 「探偵」のふり幅が大きくなってしまった。1や2の立場では、探偵は自分の能力に不信を持ち、結果として他者を傷つけたことに苦悩する。間違えるのは誰もが行うことだが、人命や財産にかかわるのであって、判断や推論のミスは致命的。でも、こういう立場の職業は探偵に限らず、医師や弁護士、警官などにもあって、彼らもまた間違える。こういう人たちはエラリーの苦悩と無縁なのは、判断や決定を下すまでのプロセスが公開され審議され、組織で動くことと、特別な職業倫理があって当事者たちはその倫理通りに行動することを求められているから。なので、彼らのミスや間違いはある程度の情状酌量が認められる。ところが、探偵には職業倫理は定められていないからなあ。しかも彼が判断や決定を下すプロセスは不可視になっているし。おかしなことに紙上の探偵は近代市民社会の擁護者であり、その論理の具体的な人格化なのだけど、探偵本人は近代市民社会の倫理から外れているというわけだ。そういう特権的な立場や職業は現実であるはずがないから(そんな特権のある人が大手を振ってはた目には勝手な判断や決定を他人に押し付けるのだぜ)、エラリーの苦悩は紙上のものなのだよな。
 奇妙なのは3の場合。ここでは探偵は理性という「神」に使える巫女や神官みたいだ。彼は宣託をたれる、その宣託を述べる理由は不可視であるから、それ以外の人は謹聴するしかない。なるほど、この場合の探偵は、錯綜し混乱した世界を整理する「デウス・エクス・マキナ機械仕掛けの神)」に他ならない。そういう役割になったのは、クイーン以外いないよなあ。
 「災厄の町」以降の作品は、パズルとしては簡単になった。でもこういう問題(探偵小説としては意味がないが、社会や思想では意味を持つ)を考えさせるから、いわゆる「後期」の作品のほうが俺には重要。