怪談ショートショート集。1978年角川文庫初出。
黒い招き猫*/目のない賽*/腕時計*/幽霊屋敷*/新世代語辞典/夜のオルフェウス/粘土の人形*/過疎地帯/呪法/静かな夜/小鳥たち*/ひどい熱/狐つき/壁の影*/宙づりの女/心霊現象/百物語/ベランダの眺め/もういや!/漂う顔/死者の宴
熟練の技を堪能。申し分ありません。
多くの作品で「もの」が怪異や不思議の原因になっている。「*」をつけたのがそう。この国では、日常にあるものはすてられていくが、たまたま蔵に放り込まれたまま百年も放置されると、その「もの」は神様になってしまうんだそうだ。荒俣宏「開かずの間の冒険」(平凡社)にそんなことが書いてあった。もしかしたら、ウィリアム・モースが集めた明治時代の日常品を展示したボストン美術館の番組でのことだったか。いずれにせよ、ありふれた、どうでもいい、異化作用を発揮しようのない「もの」でも、注意をしっかり向けると怪異が醸し出されて、人々は怯えるというわけだ。できれば「もの」は年季を経ていたり(「黒い招き猫」)、奇矯な人物が作り出したり(「目のない賽」)、どこか異国から持ち込まれていたり(「腕時計」)しているとよい。そこにはなにか創作や使用にあたっての物語がくっついている。そうすると、「もの」を持っている人に起きた不幸や不思議が、その「もの」から発したと思い込むようになるのだ。たいていの人は自分が合理的で、超自然を信用していないとしても、起きた不幸や不思議は否定しようのないもので、合理的な消去法を経た上の不合理で超自然な解釈が残ると、それを信じることになる。それは実が合理的で論理的な思考の末のもの。
そんなふうに怪談をみていくと、とても合理的で論理的な思考をする物語なのがわかる。なにしろ、ここには善と悪を区別したり、罪と罰をさばいたりする「神」はまったくの不在だから。怪談には「霊」とか「超自然」はでてきても、とても即物的で人間の感情や行動パターンから外れるようなことは起きない。霊や怪異も人間の理解しうる範囲でのできごとになるし、人のだした結論も常識や道徳の範疇を逸脱しない。解釈のしかたが、超自然を受け入れるということだけが日常を越えているだけ。怪談の底には合理性や論理性が流れている。これは近代の特長かなとも思ったが、平安時代から鬼や天狗が現れたり、幽霊の出現する物語はあったわけで、その時代だと鬼も天狗も霊も存在するものであったから、怪異や因果を説明するためにそれらを登場するのは「自然」な考えだった。
とはいうものの、チェスタトンの指摘するように([ブラウン神父の不信」)、超自然的な解釈を受け入れることは思考停止・判断停止になって、われわれの悟性を堕落させる。まあ、怪談を読むことと、オカルトやスピリチアリズムを生活で実行することには雲泥の差があるけど。
というような大上段なことを考えてしまったよ。恥ずかしいなあ、もう。
あと面白かったのは「もういや!」。ホテルで寝ていると全裸の男女がいきなり出現して、という話。このアイデアは、筒井康隆「郵性省」と同じなのだよね。筒井はスラップスティックコメディにし、都筑は艶笑譚にする。アイデアは同じでも話の転がし先が違っていて、それが作家の個性になるのかなあ、と思った。