odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

都筑道夫「悪魔はあくまで悪魔である」(角川文庫)

 1974年から1976年にかけて雑誌「野生時代」に連載された短編を24編収録。このあと同じタイトルで「都筑道夫恐怖短篇集成〈1〉」ちくま文庫が出版されているが、たぶん収録内容が異なる。ご注意あれ。角川文庫版のほうがよいのは、雑誌に掲載されたときに描かれた山藤章二のイラストが収録されていること。この二人は、1970年代にコンビを組んでいて、彼のイラストがのっていることが必須の作品もあるくらい(ものぐさ太郎のシリーズはことに)。入手しづらくとも、ファンはこちらも探しましょう。
 個々の作品に触れることはあるまい。文体、比喩、語り口、会話、描写が的確なうえに、独自なものを備えるに至るというのは、この国のエンターテイメントの作家では稀有なこと。そのうえで、ストーリーの妙に驚天動地の落しは芸の域。読後はため息をつき、やられたと笑えばよい。そういう読書の至福を味わえる。

 なので、以下は穴埋めのための駄文。
・「悪魔の取引」というジャンルがある。悪魔(でも魔物でも、物に取りついた精霊でも)が現れて3つの願いをかなえよう、そのかわり死後の魂をもらうと吹きかける。穏当な願いをしたつもりでも被害が起きる。金が欲しいというと肉親のひとりが死んで慰謝料がはいるというような具合。息子を返してというと、ゾンビになった。この家に入れないでというとゾンビは帰るが願い事はおしまい。悪魔と取引すると、悪いことになるよというわけ。ここに書いたようなのは19世紀の物語や民話などにあった。20世紀になってエンターテイメント作家は、どうにかして悪魔をやり込めようとする。条件を付けたり、3つの願いの制限を解除しようとしたり。うまく悪魔の隙をつこうとする。うまくいったかにみえても、最後には悪魔の知恵にかなわない。どういう願いをしたのか、悪魔はどうやって逆襲したのか。そのあたりを考えるショートショートやホラーがたくさん書かれた(とはいえリストアップしたことがないし、そんな「悪魔の取引」テーマのアンソロジーを読んだこともないので全容は霧中にあるのだが)。この国では、都筑センセーが熱心に取り組んでいる。タイトルの「悪魔はあくまで悪魔である」がまさにそう。他の短編やショートショートでも一冊につき一編はみつかるかも。悪魔の隙をつく論理を考えるのは大変、そのうえで隙をついたつもりが落とし穴がある論理をつくるのも大変。センセーの作を追いかけると、ストレートに書くにもあれば、話の枕に使うのもあれば、最後にようやくそうだったとわかるのもあれば、と趣向をこねくり回しているのがわかる。その熱心さに感心するし、どの作でも論理の紡ぎに手を抜いていないのもすごい。このところほかのエンターテイメント作家の手になる新作を見かけないので、とても珍重している。
・作品が書かれたは戦後30年目。あれほどの悲惨な経験であっても、それだけの時間がたつと記憶は薄れ、そもそも敗戦の後に生まれた人が成人し社会の中核になっている。センセーのような戦中を小中学生ですごし、飢餓や物資不測に悩んだ経験を持つ人たちが、そのようなトラウマを持たない若い人をみると、どうにも居心地悪く感じているよう。敗戦体験に囚われている人たちがよく登場して、戦争や戦前を懐かしむ。単純な郷愁というわけではなくて、懐かしさと嫌悪、復活の希望と忘却の願いが交差するような。複雑な感情、それは中年になったものに特有のといえるのだろう、が登場するようになる。なるほど、この時代には「戦後」すらもリアリティのないような時期だった、と記憶する。その反映か。このころからセンセーの作品には中年から初老の人たちが登場し、物語のキーになる。
(20世紀最後の10年間の阪神の震災やオウム事件、21世紀の新潟や東日本の震災などは、その事件の直後に多くの人に衝撃を与え、インスパイアされた作品がたくさん書かれた。それも事件から30年もたつと、その事件を経験していない人、そのあとに生まれた人が増えて、その衝撃を追体験したり共感したりすることができなくなる。この短編集と同じ感想をもう少したつと、多くの人が上記の事件について書かれた作品を読んだときに感じるようになるだろう。)