odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

高木正幸「全学連と全共闘」(講談社現代新書) 戦後学生運動史。左翼の学生運動はほぼ壊滅したが、右翼の学生運動は書かれた後に大伸長。長い不況は学生が政治参加する余暇をなくす。

 これも保坂正康「六〇年安保闘争」(講談社現代新書)とおなじく、1985年初出。保坂の本は1960年安保闘争にフォーカスしているが、この本は戦後学生運動の歴史を書いている。といいつつも、記述は左翼と新左翼の党派までを網羅。戦前に「学生運動」は少数でほとんど存在しなかったというが、民族主義や保守派の学生運動があったのを無視している。著者の考える「学生運動」からそういうのは排除されるわけ。

 で、戦後の学生運動は、まず労働組合運動がさかんになったのをうけて、昭和22-23年ころから開始。当初は共産党の指導を受ける仕組みで組織がつくられる。武装闘争もやったけど、スターリン批判後1955年に共産党が方針を変更してから、党の批判がおこり、1960年安保闘争で分裂。そのあとスターリン批判をもっぱらにする新左翼が生まれて、学生運動ヘゲモニー争いを起こす。1968-69年の学園紛争で敗北した後、武装闘争・テロリズムに傾斜。内ゲバで殺人まで起こし、支持者が大幅減。1980年代は学生運動の「冬の時代」になった。嘆かわしい、というのが本書のまとめ。
 まあ、おいらは「流動」とか「現代の眼」とかの総会屋系左翼雑誌(総会屋が大企業から金を引き出す一方、左翼からの批判が起こらないように雑誌を出していた。80年代初頭で総会屋が法規制されるようになって相次いで廃刊)で、戦後左翼運動史を読んでいたので、ここにある記述は初読時において既知だった。でも、知っておいて有効に活用したことはないし、これからの市民運動には不要なので、読まなくていいです。
 学生と専従党派員だけが突出する「学生運動」ができたのはよくわからない。とりあえず彼らの言によると、革命運動は労働運動を基礎とするけど学生も数が増えたからひとつの階級とみなして独自に運動してよいという「層としての運動」、これから労働者になる学生が理論と運動の経験を積むことがよいという「先駆性理論」になるのだそうだ。そこに肉体で表現することを良しとする「街頭突撃主義」があわさって、「暴力」「武装」が行われていく。1970年前後には、帝国主義の一歯車となっている学生という存在に安住していてはならない(革命の専門家・専従者になれるよう自己改造しようという)「自己否定」が加わる。いまとなっては、大衆・人民から選抜された(俺様)学生が革命を主導する存在であるというエリート主義と、大衆からは常に「裏切られている」という責任転嫁とニヒリズムがよくうかがわれる。
 一方、批判された共産党は、こと運動に限っては、語句の意味や解釈に非常にこだわる些末主義、「暴力」を完全否定する保守性(座り込み、罵倒、施設占拠のような非暴力活動まで「暴力」とするからなあ)、妥協点や共同スローガンを探らず自分らの主張を押し通す傍若無人さがあった。今はよく知らない。21世紀以降は変わってきたみたいだ。
 というふうに読んだので、マルクス・レーニン主義を掲げ、暴力・武装革命を方法とし、プロレタリア独裁を目指して永続革命を行おうとする「学生運動」の「冬の時代」は続いていて結構です。この種のステークホルダーの要望や要求を一切無視し、主張や方法を押し付ける組織はいらないですよ。この本にある独善と自己賛美、その裏返しのセンチメンタリズム、ノスタルジーには辟易した。再読したのを後悔。
 以下蛇足。「暴力運動」とか「街頭激突主義」がよくないのは、(1)負傷や逮捕によって組織のリソースが減少し、ビジョンやミッションの達成が大幅に遅れる、(2)組織の成果やパフォーマンスで外部やステークホルダーの評価が落ちて、支持者が減少する、(3)権力による「フレームアップ」や「風評被害」などによって、組織の評価やパフォーマンスの評価が落とされる、(4)組織の結束を弾圧や逮捕の経験に求めるので新規参入しにくくし組織を閉鎖的にし内部批判や改善をやりにくくする、など。まあ、ボリシェヴィズムのだめなところがここに集約されている。
 一応ねんのためだが、これは抵抗権を否定するわけではない。公害被害者や所有する土地を強制収容で奪われた人たちなどの暴力的な抵抗は否定していない。いいかげんにしか考えていないが、組織の後ろ盾を持っている人と、いのちを賭けざるを得ない人との相違あたりに区別の理由がありそう。
 まあ、1970年以降に生まれた人には関係ないし、知る必要はないので、この本はスルーしてください。