odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

中島誠「全学連」(三一書房)

 1968年5月の初出。
 1960年の安保闘争で、学生運動が割れた。スターリン批判の影響を受けた若者たちと、共産党指導を批判するようになった若者たちがそれぞれ自前の党派を持つようになる。よくわからないのだが、全学連からわかれた共産主義者同盟(通称ブント)と、トロツキーの研究から組織化された革命的共産主義者同盟革共同)と、社会党左派から独立した社会主義青年同盟社青同)。というのでよかったのだっけ(それぞれヘルメットの色とアイコンを別にして視認できるようにしていたみたいだけど、いまはどうでもいいや)。ブントは安保のあと瓦解(分派した弱小セクトはこのあと20年くらいは存続)。革共同は1962年ごろに中核派と革命的マルクス主義派(通称革マル派)に分かれる。これらはそれぞれ自前の全学連を持つようになった。いわゆる三派全学連という。同盟員数と動員数でこの3つが優勢であったが、それ以外に毛沢東派、国際トロツキスト連盟の第4インターの日本支部、などがあり、それぞれが年を重ねると分裂を繰り返して、さていったいいくつの党派ができたのかしら。(似たようなことは、1990年以降のプロレス団体にもあって、それまで男女計3団体だったのが、格闘技色の強いUWF、デスマッチほかなんでもありのFMW、メキシコのルチャリブレ直輸入のユニバーサルプロレスができ、それぞれ離合集散を繰り返した。興行を一回行ってそれっきりのプロダクションまで数えると、はてさて40-50にもなったか。一時期は、系図をかけもしたのだが、こちらも忘れてしまった。)

 さて、1960年安保の高潮のあと、高度経済成長のせいもあったり、世論を分ける政治問題がなかったりして、学生運動は退潮する。それでも、それぞれの全学連は5000人のデモを主催できるくらいだった。ふたたび学生運動が盛んになったのは、1966年ころ。インフレが進行したことで、学費が値上げされることになった。多くの学生がバイトで生活費を自活する状況だったので、大きな問題になった。もうひとつは、ベトナム戦争が熾烈になって、この国にある米軍基地が後方支援のかなめになっていた。そこで、王子野戦病院へのデモとか、佐世保や横須賀への米軍空母の寄航阻止とかの運動があった。東大インターン問題とか、日大の不正経理発覚なども1967年には起きていた。
 注目を集めたのは、1967年の佐藤訪米阻止闘争で、中央大の学生が羽田空港に通じる弁天橋で死亡する事故が起きたこと。学生の街頭運動に対する警備が厳しく暴力が振るわれたことと、右翼・体育会学生の暴力が起きたこと、民青の行動隊が全学連などのデモを襲撃するようになったことに対抗して、学生の側がヘルメット・ゲバ棒を装備するようになったこと。これらの暴力イメージと実際の機動隊との衝突場面で、賛否を呼んだのだった。
 振りかえれば、この時期には、全学連に対する共感は、まだ一定程度あった。それが覆されるのは、1971年ころからの中核・社青同革マル内ゲバ連合赤軍事件とあさま山荘事件。加えて、各種の爆弾テロ、ハイジャック、市民への無差別テロなど。それらはこの本の出版後のできごとなので、書かれていない。
 著者は戦前生まれで、1950年代の学生運動経験者。当時の学生運動の一回り上の世代による全学連学生運動批判。批判内容は、気持ちはわかるが、あんまり跳ね上がると大衆から遊離するからほどほどにしとけよ、くらいかな。批判の細部は自分がほかの本の感想に書いたのと似ている。おいらには懐かしかったが、ほかの人は読む必要はないです。