odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

立花隆「中核vs革マル」(講談社文庫)

 中核派革マル派内ゲバは1969年ころに始まり、頻発したのは1978年くらいまで。その間に、数十名の死者とその数倍の負傷者を出した。このゲバ(というよりテロルだな)のエスカレートが重要な社会問題になり、のちに文学者などからのテロ停止の勧告がなされた1974年のレポート。(大学の学園祭実行委員会室に、誰が持ち込んだのか、中核と革マルのそれぞれの内ゲバ暴露本が置いてあったなあ。死体写真を掲載した陰惨なものだった。)
 革命という観念に取り付かれ、「党」の権威を自分の存在理由にした者たちの行動における悲劇、その精神における喜劇。林達夫のいうとおり、革命ははた迷惑でないにこしたことはない。1989年の東欧「革命」などでいくつも暴力によらない社会変革が実現したのだから(まあそれにはいろいろな条件が必要で、新政権を受け入れす組織がないと悲惨な結果になるのだが)。しかし当時だと、ソ連・中国・キューバなどの民衆蜂起と軍事を背景にした革命(前政権の打倒と排除、政府批判組織による権力の再構築)くらいしか社会変革のモデルが無かったからねえ。後出しでいうと、彼ら新左翼の連中は反スターリンであった(のかもしれない)けれど、反レーニンではなかったし、マルクスらの「科学的」社会主義の批判という視点ももてなかったし、成功するはずもなかった。ただし、こういう視点はこの本の中にはなく、もっぱらモラルの視点からの批判(人を殺しては成らない、批判はしても暴力はいけないなど)に終始するので、彼ら新左翼には通じない。これは今日の別のテロリストたちにも同じことが言える。たぶんわれわれのモラル的なテロ批判、組織批判は彼らには通じないだろうなあ。
 結局のところ、彼らを支える「大衆」「民衆」の支持がなくなるような社会、テロルしかないと思わせるような絶望的な状況の改善をするという、平凡で、困難な道だけがあるのだろう。彼らを支持する基盤が無くなれば、テロリスト、テロ組織は枯死するのだろう。
 批判の視点のものたりなさをのぞくと、この本の面白さはそれぞれの党派の新聞記事が随所に引用されていることだろう。テロルの深刻化、敵対党派への憎悪が進むにつれて、品性が落ち、下劣な文章が垂れ流され、事実の記載さえなくなるこの「新聞」と称するものの下劣さと滑稽さが際立っていく。人種差別扇動なみのひどい文章なので、閲覧いは十分に注意すること。
 1975年に知識人から、テロルの中止を呼びかける宣言が行われた。直前に内ゲバの一方的停止宣言をしていた革マル派によって政治的に利用されたために、効果はなかった。効果がないことについては論評なし。関心を持ったのは呼びかけ人に埴谷雄高がいたことで、これは戦前の共産党の出身(かつスパイリンチ事件に近しいところにいた)ことから納得する。大岡昌平との対談「二つの同時代史」によると、1952年頃にスターリン批判の論文を書いたら、のちに革共同を設立する事になるメンバーが彼を訪問し、議論していたとのよし。当時の中核派革マル派の指導者は埴谷が面識のある人たちだった。もし、この時代に高橋和己が存命であったら、どうしたかというのは気になった。1971年死去で、「内ゲバの論理はこえられるか」」などいくつかの論文があり、京都大学の教官として学生と対話する経験をもっているので。
 大田竜、黒田寛一などの「革命的共産主義者同盟」の創立者たちは2000年代にはいってあいついで死去した。
 まあ、1970年以降に生まれた人には関係ないし、知る必要はないので、この本はスルーしてください。(以上を書いたのは2009年なので、現状とあわなくなっていますがそのままでエントリーにします)