odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

パトリシア・スタインホフ「死へのイデオロギー」(岩波現代文庫)-2

パトリシア・スタインホフ「死へのイデオロギー」(岩波現代文庫)-1

 つづけてあさま山荘事件。10日間の籠城の最終日には、クレーンでつるした巨大な鉄球が建物を壊し、終日ガス弾が撃ち込まれ、放水が続けられた。ほとんどのテレビ局が現地から長時間の生中継を行った。たまたま風邪で学校を休んだ自分は、夕暮れまっくらになり逮捕者が護送車にのるまでテレビの前にいた。その一か月後、新聞のトップに、粛清犠牲者の遺体が発見された記事が載っているのを見た。読んでも、そのときは意味は分からなかった。

第四部 殲滅戦 そのアイロニー ・・・ 1972年1月下旬、リーダー二人が上京したところで、粛清はなんとなく終了する。サブリーダーが粛清に疑問を持っていたとか、非指導者は新しいリーダーの権威を承認していなかったとか(しかし服従はする)。所用で下山するものから離脱者がでる(しかし秘密は厳守)。警察の追求が強まり、小グループから逮捕者が出て、もっとも多人数のグループ(銃器を持っていた)が長野県に移動し、あさま山荘に籠城する。彼らはここで死ぬ覚悟を持っていたが、当時の警察の方針で全員が逮捕された。逮捕者は黙秘するはずであったが、群馬県山中の「共産主義化」訓練ではしゃべること、自己表明することを要求されていた彼らは粛清の死者が発掘されたあたりから自白を始める。
(警察は赤軍派の一連の事件を解決することを目指していて全員を生きたまま逮捕する方針であった。一方、連赤にとっては「銃による殲滅戦」であり、死ぬことが目的になっていた。その結果、逮捕者は彼らの理念にない行動、すなわち「戦いの意義と責任」を考えるという新たな課題に直面することになる。また彼らのミッションとしていた「共産主義化」は警察と接する現場では通用しなかった。彼らのイメージでは警察は暴力や拷問をふるうものであるが、実際は戦前からの経験に基づき「人間的な対応」と情報を遮断する「独房」拘禁で、彼らに自省する時間を与えるものであった。ここでも日本的なリーダシップや集団への責任意識などが顔を出す。)
第五部 責任 終わりのない物語づくり ・・・ 逮捕から第1審判決まで。転向は「一個人が社会的圧力に直面したときに、いかにして自分の政治的信念を保持し続けていけるかという普遍的な問題(P270)」であるとする。戦前の特別警察などは暴力で転向を強制したとされるが、暴力のない状態でも転向は起こりうる。事件の関係者が逮捕され、それぞれが分断され孤立された状態で捜査官だけとコミュニケーションをとる状態でも転向があり、この事件でもそれは起こる。自白や自供という形式をとるが、転向との違いは微妙。獄中で、逮捕者は政治的活動の責任意識をもつ。彼らは行動していたときのイデオロギーに依拠して正当化を図ろうとしたが、粛清という体験はイデオロギーを崩壊してしまい、正当化の根拠を失った。そこで彼らはイデオロギーの「誤り」に道を見出そうとしたが、それも問題の矮小化という批判を浴びた。この事件の指導者の責任の取り方は多種多様。判決に従うもの、法廷闘争で正当化を図ろうとするもの、国外に脱出したもの、自死したもの、組織から離反したものなど。
エピローグ ・・・ 連赤事件の場所を19年ぶり(1991年)に訪れる。時間の経過は、群馬県の山中が都市と隔絶した場所であること(当時は一日以上の行程で、1990年当時には3時間で到着)と忘れさせる。群馬県の山奥は、ゲバラのこもったボリビアの高山と同じくらいの場所だった。


 この国で連合赤軍事件のことを考えると、感情が先に出てしまい(怒りや悲しみ)、あるいは新左翼の運動や関係者に近すぎる立場にたって細部に拘泥してしまい、あるいはイデオロギー批判に集中したりして、なかなか事件を対象化できない。この国で書かれた多くの本はそういう問題をもっている。自分もそのような読み取りをしがちで、問題へのアプローチが困難になっている。その点では、アメリカ人であり、運動には一切の関係を持たない学者のアプローチは冷静さと客観性を担保することになる。
 本書で繰り返されるのは、この事件は異常な個人や異常な集団による異常な事件ではないということ。ここは重要で、事件や関係者を異常とすることで、自分には無関係であると葬り無視することが可能になる。しかし、その事件、とくに粛清を実行するプロセスをみると、どのような集団や個人にも起こりうることであり、加害者と被害者をわける明確な線は存在しないことがわかる。実際、似た事例をこの社会でたくさん見つけることができ、読者である自分、この<私>はいつでもこの事件の関係者になりうると恐怖を覚える。加害者でもありうるし、その紙一重の被害者にも。
・事件は社会的なプロセスを経てエスカレートしていく。そうなる前提は、「第三部 連合赤軍 粛清をめぐる閉ざされた集団の考察」にあげた3つが参考になる。真面目で知的な構成員が、日常や生活の「常識」や判断を喪失して、少数の煽動者指導者の指示に従っていく。そして他者危害、死体損壊などの暴力行為に発展していく過程で、歯止めや帰還可能な地点を見極めるのはきわめて困難。事件のプロセスをみても、ここでやめるべきだったという地点はみいだしがたい。
(そのさいに、革命運動・共産主義運動に原因があるとするのも短絡的な見方。そのようなイデオロギー批判では同種の別の事件を理解できないし、とめることもできない。)
・思想的な忠誠心が構成員に常に問われる状況になっている。その思想、イデオロギーはあいまいだし、課題とその解答が適切であるかも明示されない。構成員は常に矛盾した状況(忠誠を示す言動が新たな批判や脅迫の理由になり、脱出できなくなる)に置かれる。状況を改善できない原因が自己にあると思うようになり、自己を無にすることで、忠誠を示そうとする。そのような状況とうえの転向の定義を重ねると、粛清の過程もまた「転向」を強要するプロセスであったといえる。その過程で現れる自己観念の解体過程で、肉体・生活・民衆への嫌悪が浮かび上がり、それを通じて思想への忠誠心が自己の中に肥大するのだろう。
・そのプロセスは、企業・学校・家庭・軍隊・共同体でも起きること。思想的忠誠心が高く被害者にならなかったものが、今度は加害者・支配者になって新たな抑圧を生み出すのを見るのはしばしば。一方で、脱落して被害者になったものには抑鬱パニック障害などが現れる。ときに被害者が逆上して、加害者に報復することだって珍しくない。
・このような事態を起こしやすくする背景には、この国の<システム>@カレル・ヴァン・ウォルフレン「日本/権力構造の謎」(ハヤカワ文庫)や、意思決定プロセスやマネジメント方法、集団帰属意識や責任の取り方などがある。この指摘も取り扱い注意で、日本の<システム>などのユニークさに原因を押し付けないこと。
・そうしたうえで、組織や集団がスケープゴートを作り出して「いじめ」「暴力」「粛清」などを引き起こさないためには、組織や集団の外の評価を反映する開かれた仕組みを導入することと、組織や集団及びその構成員を外部から評価するときに意図や動機ではなく成果とパフォーマンスを優先しようという、ごくあたりまえで、実現困難な行動をとることになる。まとめると単純なことではあるが、運用しようとするととたんに難易度の高くなる施策だ。
(企業や学校のような成果やパフォーマンスで評価される組織は外部の批判にさらされてコンプライアンス重視の運用をするようになっているが、政党・宗教団体のような権威主義的な傾向の高い組織や、省庁・警察のようなタテ割りで官僚制の強い組織はなかなか変わることができないでいるみたい。)