1972年に出たこの本は、朝日ジャーナル編集部「三里塚」「闘う三里塚」(三一書房)とは違って、山口武秀のインタービューおよび討論があって、最後に1972年当時のまとめと展望を乗せている。
山口武秀は、常東(茨城県東部から千葉県北部にかけて)の農民運動を戦前戦後に指導してきたひと。1915年に生まれ、1931年に旧制中学を退学して農民運動を開始。1935年に治安維持法で検挙され、通算8年間も獄中にある。1945年8月15日、玉音放送の後から即座に農民運動を開始。1947年に衆議院議員になり2期務める。この本を読むまで、このような人物がいるのは知りませんでした。戦後の農民運動は、農地解放の拡大、小作人の権利拡大を目的にする。それまでの大地主制のために、村のほとんどの土地は少数の地主が所有していて、それを小作人に貸出していた。この小作料が高いとか、農具・肥料他の代金が高いとか、さまざまな抑圧を小作人は受けていて、勤勉に働いても手元に現金や資本がたまらず、いつまでも貧困にあった。また地主は地方の官僚や政治家とつるんでいて、小作人の改革要求をつぶしていた。当然、都市の保守政治家や官僚との結びつきが強い。まあ、戦前の軍国主義を維持する制度であり、農村の生産性上昇を妨げていたのだ。敗戦のあと、占領軍は農地解放を強力に進める。大地主の土地を貸し出している小作の所有に変更させ、小作一家あたり-ヘクタールくらいを所有できるようにしたのだ。もちろん、大地主の反対は強硬で、占領軍の指示があっても。、そうは進まない。そのときに、農民は組合を結成して、農地解放を推進させようとした。山口武秀は農民の組織化と戦術指導などの働きをする。
これを読むと、1945-55年くらいの農民運動は相当に激烈で、それこそ三里塚の反対同盟の行った戦術(子供らの同盟休校、納税拒否、公職辞任などを含む)を先取りするように行っていた。というか、三里塚の戦術は先達を継承したものだったわけだ。農民運動には社会党や共産党も熱心だったので、この時代の農村は革新政党の支持基盤であったのだ(都市の小市民が保守政党の支持基盤)。この農地解放、土地改革はアメリカが占領ないし統治した地域では行われたものだが、この国ほどの成果は上げていない。
このころのエピソードで驚いたのは、むかしの小さな役所にはいろりがある畳敷きの部屋があり、そこを訪れた農民は村長や助役と世間話のついでに政治要求(まあ道路を舗装しろとか水路を補修しろとか除草剤を手に入れろとか)をのませていたこと。井上ひさし「吉里吉里人」に国会議事堂車が村を走っていて、そこには誰でものれて、村長や助役と交渉できるというアイデアがあった。なるほど新しいなあと思ったのだが、なんだ「古き良き日本」の仕組みだったのか。田中康夫が長野県知事になったとき、知事室を閉鎖して一階ロビーに知事といつでもあえるコーナーを作ったことがある。これに古くからいる役人は大反対した。なるほど、彼ら小役人の頭ごなしに、市民と知事が交渉できるのなら、小役人の存在意義は失われるものな。昭和30年代になると役所は建て替えられ鉄骨ビルになったが、そこには囲炉裏のある畳敷きの部屋はない。村長・助役と農民に距離が置かれ、政治参加ができないようになっていく。
それ以外の理由でも、農民運動はしぼんでいく。農地を所有し、安定した収益を持てるようになると、政治運動よりも生産性向上運動に向かったとか、農業よりも工業労働者のほうが現金収入が多いとか。それに加えると、保守政権が継続するうちに、地方税の割合が減り、国家からの補助金で地方自治体を賄わないといけないという事態になった。補助金を獲得し、企業誘致をするのがよい政治家ということになり、農民もそれを支持して、農村は保守政党の支持基盤に代わる。
さて、三里塚の運動についてであるが、当時50代半ばの歴戦の運動家であっても驚くような強さと粘りを持つ。それに驚嘆しつつも、山口は反対同盟vs機動隊の構図から抜け出て、彼らを数万の支援者で包囲しようと壮大な構図を描こうとする。この本に登場する反対同盟員も言うように、反対同盟は周辺への告知や支援要請などをあまり行わなかった。かつての農民運動でそのような広がりを作っていたので、それが歯がゆいわけ。
(今ではSNSで運動の状況をかんたんに、リアルタイムで伝達することができる。うまく利用するのがよい。やるほうも支援するほうも。)