odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

小田実「義務としての旅」(岩波新書) 1965~66年、さまざまな国のベトナム反戦運動の連携を探る世界の旅にでかける。

 「何でも見てやろう」から5年後、新たな旅に出る。世界を眺めることを目的としていた前回の旅と異なるのは、さまざまな国のベトナム反戦運動の連携を探る明確なミッションがあったこと。まずこの国で「ベトナムに平和を!反戦連合」の運動を始めた後、作家は世界の反戦運動の大会や各国の運動家とあい、ときに彼らの集会でメッセージを読み上げたりする。そこで訪れた国は、アメリカだけでなく、ギリシャキューバプエルト・リコ、韓国、ベトナム、フランス、ソ連などに及ぶ。なので、「義務」を自分に課すことになる。明確な目的を持って国を訪れるから。

 この旅が行われた1965−66年を概観しておけば、ジョンソン大統領によってアメリカはベトナム戦争に介入した。同時にアメリカでは黒人の公民権運動も起きていた。キング牧師マルコムXが独立に活動し、学生組織も白人と黒人それぞれが作られていた。キューバ危機は数年前で、カリブ海は緊張している。ソ連と中国の仲が悪くなり、国際会議では中国とソ連はそれぞれ相手を敵視し、無視していた。中国は毛沢東の巻き返しの文化大革命が準備されつつあり、基本的に鎖国政策をとることになる。
 この国では、ベトナム戦争のおかげでアメリカの発注した様々な物資の生産が盛んであり、そのことを問題にして反戦運動が起こっていた。この国の反戦運動は1950年代の反核運動にさかのぼれるが、あいにく共産党系と社会党系の組織に分裂していた。いずれも学生の組織(全学連など)が参加することを快く思わない。著者は数名の仲間と上記のゆるい結合の運動を開始していた。だいたいこういう時代で、まだ反戦運動公民権運動あるいはさまざまな新左翼の組織も敵対的ではなく、統一戦線を貼ろうと思えばできた時期だった。
 このような反戦運動公民権運動に参加する人のおおよその共通認識は、1)アメリカのベトナム戦争には大義や正義はない、民族の独立を阻止する軍事介入にほかならない、2)社会の不正や差別を克服するには社会主義政権に変わることが必要である(社会の不正や差別を資本主義や自由主義は解決できないし、むしろ問題の原因になっている)、3)ベトナム戦争は南シナ半島で行われているが、そこで使われる武器や軍装品を生産したり流通することは戦争を支援していることになる、あたりかな。組織や人によってどの問題解決に参加するかはさまざまであり、政府や企業に反対の意思表明をすることであったり、脱走兵や難民を支援することであったり、国内差別を撤廃することであったり。まだこの時期にはテロリズムはないし、組織の武装も行われない。それはこの少しあと。まあ、運動に参加する人が増え、警備が厳重になり、ときに兵士と対峙するようになってから。双方に死者や負傷者がでるようになってから武装が始まる。ここらは先の話なので、ここまで。
 著者がこの旅をすることによって見えてきたこと。小さいところからだと、運動家や組織は自分の国ないし自分の所属する組織のことしか知らない、ましてほかの国のことはまるで知らない。問題が起きていて、それに抵抗する組織や個人がいることも知らない。その一方で、自分の国や組織の運動には未来がないと思っていて、ほかの国に期待をかけている。こういう滑稽さもあるのだが、人を巻き込んで運動を大きくすることの困難さに直面する。まあ、デモやビラや新聞広告やセミナーや勉強会や演説をしてもそう簡単には人は運動しない。家庭があるから、仕事を失うわけにはいかないから、自分の考えと一致する組織がないから、どうせ運動しても変わらないから、云々。別の反応は、インテリによくある議論だけは先鋭で、皮肉で、的確な分析で、ビジョンを提示して・・・しかし「今の運動はこういうダメなところがある」「時期尚早だ」などといっておしゃべりだけして何もしない。そういう反応にあって、運動家や活動家は消耗し、疲労し、ひとりまたひとりと脱落し。この10年前に同じことがいわれ、10年後、40年後にも同じことが繰り返される。
 その優れた対応策などなくて、行動の継続とほかの人たちとの交流、絶え間無い情報公開、と言い尽くされたことをくりかえすしかない。著者も苦悩し、同じところを歩いている。とはいえ、これは絶望の書ではなく、ほかの国の様々な人々や事例を紹介することで、それこそ「我々は孤独ではない」ことを示そうとする。
(2013年に書いた記事なので、2015年の現状に合わないところがありますが、そのままにします。)