odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

ロス・マクドナルド「ブラック・マネー」(ハヤカワ文庫)

 アーチャーが頼まれたのは、大学を卒業した24歳の娘ジニーの行方。富豪の娘でフィアンセもいたが、突然インテリ風のフランス人と結婚し、駆け落ちするといいだしたのだ。フランス人の正体と行く先を突き止め、できれば阻止してほしい。願ってきたのはフィアンセと称する隣家の銀行理事の息子ピーター。フランス人フランシス・マーテルの住処はすぐにわかるが、アーチャーの説得に応じず、引っ越してしまった。

 というような具合にストーリーを追っていくと混乱するので、少し離れて状況をまとめてみよう。複雑な人間関係が明らかになってくる。まず行方不明のジニーのファブロン家。父ロイは7年前に海に入水自殺していた。ギャンブル好きで資産をほとんど手放していて、妻(ジニーの母)の小遣いでどうにかやりくりしている。7年前の自殺の前には、ギャンブル場の影の経営者と返済の打ち合わせをしているよう。
 その後事件がいくつか続発。まず、ロイの妻マリエッタが誰かに撃たれる。必死で隣家の玄関まで這ってきて、そこで息絶えた。「愛人にやられた」という言葉を残して。そして、アーチャーが訪ねていたファブロン家の主治医にジニーから電話がかかり助けをもとめられる。隠れ家にいってみると、マーテルもまた射殺されていて、彼が持っていたとされる10万ドルも消えていた。マーテルがラスベガスのギャンブル場の影の経営者に信頼されていて、現金と金庫の管理を任されていたからだ。それが数年前に横領して失踪。しがないセールルマンがマーテルを監視していたのは、かつてギャンブル場の影の経営者の妻だった美人を妻にしていて、それにけしかけられたから。このような事情は7年前にマーテルの指導教官だったフランス文学研究者からの聞き取りでわかる。そしてさらに事態を錯綜させたのは、彼らがロイ・ファブロンの7年前の自殺の直前に、あるクラブに出入りしていたらしいこと。
 これらの事件の関係者がそれぞれ自分の思惑で行動したために錯綜したプロットがあり、さまざまな手がかりや伏線が大きな絵にピタリとはまる見事さ、そのうえでの意外な犯人(しかしその人が犯人であることはとても納得できる)が明かされる。緻密さにおいては、作者の長編では図抜けていると思う。
 小説は徹頭徹尾現在のことしか書かないが、事件の種は7年前のロイの自殺にある。この前後に起きたさまざまな人間関係と思惑が、現在(1965年)の彼らの行動を制約している。当時夫婦であった者たちは、隠し事を持っていて、それを告白することができない。そして平穏な家族を演出しようとする。当時独身だった者たちの多くは結婚しているが、たいてい夫婦の間に深い亀裂がある。しがないセールスマン、主治医、大学の指導教官は、それぞれ結婚に失敗していて、互いに不満をもっている。ときにアーチャーにモーションするような不満の持ち主も。結婚していないものも、恋愛に失敗している。妄想をもったり、精神を病んでいたり。表面上は不幸に見えない人々、アメリカの平均的な中産階級が家の中に深い問題を抱えているのが明らかになるのだ。1965年というのは、ケネディの死の数年後であり、ベトナムへの派兵が始まり、黒人公民権運動が最高潮のころ。アメリカ西海岸の都市にはまだそれらの危機や不安は漂ってはいないのだが、底流にはこのような病みが起きているのだった。
 この小説の登場人物は父権者にこだわっている。その土地の支配者(ロイ・ファブロンやギャンブル場の影の経営者など)は彼らを縛ってきた。それが7年前に不在になる。代わりに支配するものはいない。狭い土地に住まう人々は権力の不在によって不安や恐怖、不満をもつが、うわべを取り繕う生活をしていたが、土地のかかわりやこだわりを持たない異邦人が彼らの生活に介入すると、淀んでいた膿や濁りが浮かび上がる。あれから7年して帰還したマーテルのことだけではなく、探偵アーチャーもその一人。彼がかき回すことによって、人は隠していたこと、偏執していたことを口にだす。アーチャーはクイーンのような長広舌をふるうかわりに、人々に真相を語らせる。語ることは彼らのつきもの(7年間隠していたこと)を落とすことになり、なるほど作中にあるようにアーチャーは精神分析医の役割を果たすのだった。
 タイトル「ブラック・マネー」は隠し所得であるのだが、作中では夢であるとされる。なるほど人々は「ブラック・マネー」のような人に見られない隠し財産(金とは限らない)を持とうとじたばたするが、それは手に入らずはかなく消える。達成しえない夢に執着することの暗喩なのだ。それを愚かしいとみるか、切実とみるか、自分の鏡像を見ているように思うか。