存在がシュレーディンガーの猫のように量子的に変動し、現存在の根拠を失った男。なぜおれは、連続的な存在ではないのか、というような不条理SFかとタイトルから考えた。PKDみたいな狂気の世界が開陳されるのではないか、と。
ところが本書の「確率人間」は、事象の情報を集め独自の方法で分析し最後に勘をまぶして、コンサルティングをするという意味だった。バーンスタイン「リスク」にあるように、未来に起こりうることは多数あり、そのどれを選択するかで損や益が変わる。そこで人は確率計算やらポートフォリオやらさまざまな手法でリスクを分散し、未来が予測範囲内に収まるように工夫する。主人公ルウ・ニコルズは確率計算の仕事をするうちに、未来は予測可能であると信じた。そして、セレブの仲間に誘われて、新進政治家ポール・クインをニューヨーク市長にし、ゆくゆくはアメリカ大統領にしようと画策するプロジェクトに加わる。1996年当時ニューヨークは多数の移民と貧困層が集中し、セレブが逃亡して、荒廃した都市になっていた。ここを改革できれば、大統領への道が開けるはずである。
しかし、大統領に多額の資金援助を申し出た相場師に会ってから事態が変わる。彼から受け取った紙片には謎めいた指示が書いてあったが、ルウには全く予想できないことだった。しかし、半年のうちに全て的中してしまう。この相場師マーチン・カヴェイジャルは、未来を「見る」ことができ、そのことを言葉にしただけであるという。そして未来を「見る(心的イメージとして白昼夢のように見る)」ことは誰にでも可能であるという。ルウは、カーヴェイジャルに心酔し、未来を見る技術を伝授してもらうことにした。
カーヴェイジャルの未来透視では、「見た」できごとは変更不可であるとされる。すでに起きたことであるから、時間軸を運行すると必然的にすでに未来に起きた事態が到来するのだという。これは神の意思とかマックスウェルの悪魔の仕業ではなく、事象がごちごちに堅くなっている運命論・宿命論なのだろうなあ。なにしろ、すでに起きた事象を現在知っているとき、起きた事象が起きないように意図的に別の選択をするのも決まっているということになるからだ。ドストエフスキーのキリーロフ@悪霊も似たような宿命論と格闘していた。彼は無神論者(というより、個人主義を徹底することですべての行動を自我の支配に置きたいという欲望だな)だったので、行動や選択が神の手にあってはならないと考える。しかし、運命論の罠を心理的に乗り越えることができず、神の意思を裏切るのは突発的に自殺することだというところに着地する。運命論に抵抗しようとすると、そこまで考えることになるが、ルウは世俗の利益(大統領のブレーンになること)を優先しているので、思想的な格闘はいっさいない。せいぜい自分の一人称の死をすでにみてニヒリズムに陥るかと心配するくらい。
カーヴェイジャルとルウの運命論に対抗するかのように小説に登場するのは、流転教なる新興宗教。要領を得ないのだが、現世の欲得や汚濁から離脱して涅槃(ニルヴァーナ)に到達するためには、人生を移ろいやすく流転するものにしましょうという考え。なので、この教団員になると家族を捨て、仕事を捨て、支離滅裂な行動(突発的な旅、売春婦の鑑札を入手、寝所を転々とするなど)をすることになる。それは教団員以外には狂気にあるとしか思えなくなる。ルウはセルブでありインド人の美しい妻を持っていたが、妻は流転教に入信し、ルウとずれていく。でも流転教の教えのため喧嘩にならない。
思想的な対立はこの二つの考えにあるのだが、深みはないなあ。ルウの考え・信念が流転教によっても揺らがないし葛藤しないからだ。それに、ルウの正確だが意味の分からない指示にクインと取り巻きはおそれをなし、ルウは排除される。カーヴェイジャルもあらかじめ話していた通り、ルウの前で死ぬ。ルウはそのとき自分のこれからの人生を「見て」しまう。そのとき、クインは独裁者として現れ、アメリカ全土を恐怖の政治で支配するのを知る。
さて、ここから始まる、と思ったところで、唐突に終了。未来をあらかじめ知り、世界に災厄をもたらすことを知った唯一の男がどのように行動するかは不問のまま。どうも傍観することに徹底するらしいのがうかがわれる。アインシュタインは「神は賽子を振らない」といったのに対し、ボーアは「それを決めるのは人間ではない」と答えた。最後のページにこの問答が書かれるのだが、作家は思考を深めることはない。うーん、コリン・ウィルソン「賢者の石」(創元推理文庫)を第1部の覚醒で終わらせたようなものだな。物足りなかったなあ。
1975年初出。ここに描かれた21世紀や2000年は、実際の2000年の姿とそれほど変わらない。人口過剰と荒廃がアメリカを席巻しているというのが作家のヴィジョンだったが、未来予測としては小説のほうが正確だったね。