odd_hatchの読書ノート

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吉田秀和「ソロモンの歌」(朝日文庫) 「上手に思い出す」名人が戦前に交友した文学者を回想する。

 本人は「上手に思い出すのは難しい」と小林秀雄の言に賛成するのだが、どうして、こうやって作者の書いたものを読むと、「上手に思い出す」名人だなあと思う。彼が思いだすのは、戦前の知り合いとの付き合いだし、過去に聞いた音だし、かつて口ずさんだ詩なのであるが、それを読む読者は彼の経験を追体験しているような気分になるし、そのときの時代の気分というか雰囲気というかを感じ取るし、なにより彼の見聞きしたことで読者のこれまでの見聞を一新するような新しさや発見をすることになる。こういう思い出の書き手はそうはいない。

 この本に収録されたのは、音楽以外の評論。ここには1960年代の長いものが主に収録されている。初出は1970年。
 全体は4部構成。
・Iは彼と交友のあった人たち。中原中也、吉田一穂、小林秀雄伊藤整「若い詩人の肖像」伊藤整が私立学校の英語教師になるのがでてくるが、その教え子のひとりが吉田秀和だったとは!)、大岡昌平、長谷川四朗、池田満寿夫ら。著者は演奏家を論ずるとき、ライブを聴かないと正しい判断ができない旨を繰り返し語っているが、それはこのような文芸家評でも同じだった。まず、会い、話をしたり聴いたりすることがあって、そこに文章の記憶を重ねあわせて、作品や人物の全体や意図を見出そうとする。方法はいっしょ。あと、1930年ころの東京の大学生は教師や学生が頻繁にあったり、訪問したりしているのだね。
・IIは絵画について。自分は絵を見ると構図とか色使いとかバランスとか、まあ書かれた結果をいろいろ見てああだこうだというのだが、著者にかかると、どのように書いたかどのように構想を展開していったかが眼目になる。面白いのは、パウル・クレーのところ。1938年の「忘れられた天使」の線がどのような順番で画かれたかを推理する。そうすると、クレーの発想が素人(まず顔の描線を画く)とは全然別のところから発想されていたことを発見する。なるほど、どのように白紙の全体に最初の線を置くかで意図ががらりと変わるのだ(なお、著者の推理が正しいとは保証されていないので、注意)。
・IIIは、西洋と日本の違いについて。歴史と伝統、個人主義集団主義の違いなど。
・IVは永井荷風について。著者は小説は好きではないという。なるほど、Iで取り上げられるの詩人たちで、彼らの詩も随所で引用される(それは子供のころからシューベルトなどの歌曲に親しんでいたのが重要なのだろう。あと中原中也が家庭教師になったフランス語の勉強でボードレールを読んだのも)。珍しくここでは小説家を取り上げる。不思議な取り合わせだと思うが、永井荷風アメリカ〜フランス遊学をして、西洋の芸術や風俗になれ、個人主義を自分の薬籠中にして、帰国した後、この国の在り方に絶望したという半生を知れば、おのずと氷解。IIIの西洋と日本の差異に最初に注目したのは夏目漱石であるが(と著者は言うが森鴎外もじゃない、とつっこみたいのはおいておくとして)、もうひとり永井荷風もそうだった。ここで著者は荷風の文章を引用しながら、西洋理解とこの国の文化への定着の困難を語る。引用はほとんど著者の独白に重なる。思い起こせば、著者もまた戦後1953-4年のアメリカ〜西ヨーロッパの紀行で衝撃と困難を経験したのだった。荷風が帰国したとき(1910年ころだったかな)には、西洋の文化はまずこの国になかったので、荷風は絶望するしかない。でも昭和30年であれば、この国の文化や習慣他は西洋化・近代化されてきていて、理解が可能であるのかもしれないと希望をもてた。そこが荷風との違い。そのかわり、荷風のようにこの国に呪詛や愚痴を述べて太平楽にすることができない。理解が可能であるとするとどういう条件でか、西洋から見た時のこの国の弱点や不足はなにか、をずっと問いかけねばならない。その主題は、自分の読んだ1980年代半ばまでのさまざまなエッセイ、評論に繰り返される。その困難はあとになると薄れてくるが、1960年代に書かれたこの評論やエッセイ郡では、ずいぶんと苦い感情がはいっているし、悲観的であるようにみえる。

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