odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

吉田秀和「主題と変奏」(中公文庫)

 著者の最初の論文集。1952年に初出。中公文庫に収められたのは1977年。

ロベルト・シューマン 1950・・・ ロベルト・シューマンの特異性について。普通の書き方と異なって、たんに生涯と作品をなぞるのではなく、あわせて、ロマン派音楽についての省察、音楽を聴くことの省察、作者である「ぼく」が生活で考えたことも含ませている。評論と伝記に加えて、自分の思想や生活の開陳もしているわけだ。すなわち盟友・小林秀雄の「モオツアルト」1946をなぞって書いたもの。作者37歳であって、この時には小林秀雄の影響力が大きかった。
<参考> 昭和16年(1941年)の吉田秀和訳書(当時28歳)
2015/11/02 ロベルト・シューマン「音楽と音楽家」(岩波文庫)

シューマンのピアノ協奏曲をめぐって 1950 ・・・ 初めて聞いた時にはあんまり同じふしが繰り返されるので退屈に思ったが、楽譜を調べてみるととても精妙に書かれていて、内容と形式がぴったりしているのに驚いた。という、自分の調査結果を流れるように書いていき(和声学を知らないので、途中は自分には退屈)、前後に中原中也の思い出を語る。こういう小説とも評論ともつかない/どちらでもあるような書き方。やはり小林秀雄の書き方なのだろうなあ。

モーツァルト変ホ長調交響曲 1949 ・・・ 素材も限られ、楽器も不自由、形式もソナタ形式の千篇一律なもの。そういう不自由から如何にモーツァルトが多彩で精妙な音楽を書いたことか。同じ変ホ長調の序奏をもつ交響曲第39番とヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」を比べてみたまえ。それは音楽家の「耳」が単純なもの、簡単なものに満足できなかったから。というエッセイ。交響曲と機会音楽の違いだから(クライアントやターゲットの要求が違う別商品だから)とちょっかいをいいたくなるけど、モーツァツトのダンス音楽はどうだったかなあ(カッサシオンとかコントルダンスとか)。そこでもモーツァルトは精妙だったかな?。

音階の音楽家 1953 ・・・ 教会旋法から音階へ変化したのが、バロックの時期で、その時から音階がとても絶妙な表現を獲得してきた。まずバッハで、モーツァルト(論文の大半は彼のこと)、ベートーヴェンシューベルトワーグナーチャイコフスキーシェーンベルク。最後に「魔笛」のタミーノとパパゲーノの掛け合いでしめるというのは、そこの歌詞とあいまって絶妙な終わらせかた(「あれはパパゲーノの音(tone)だ」)。

セザール・フランクの勝利 1950 ・・・ フランクの克己と晩年の充実について。伝記のように勧められ、いくつかの作品が紹介される(あいにくヴァイオリン・ソナタへの言及はなし)。あわせて当時のフランスの音楽趣味の退廃とフランクの30年間の沈黙が検討される。

ベーラ・バルトーク 1952 ・・・ バルトークの紹介。このあとの1950年代はバルトークがさかんに演奏、録音された(Mercuryでドラティが大半の管弦楽曲を録音したなど)。でも大部分はルネ・レイボヴィッツの論文の翻訳。

ショーペンハウエルのフリュート 1948 ・・・ ショウペンハウエルの哲学をだしにして、音楽と思想について語るとても生硬な論文。ドイツ観念論の固い訳語ばかりで難渋な翻訳調文体で書かれている。でも、たぶん形式的な「精神」を語っているのだろう。途中で読むのをやめた。


 著者の30代後半から40代前半にかけて書かれたもの。戦後になって、教育者やジャーナリストとして活動を開始。その最初期の論文や評論。読み返してみると、彼のスタイルがまだ確立されていないころの記録。ことに小林秀雄の影響をとても強く受けている。シューマン、フランク、バルトークの評論はほとんど「モオツアルト」をなぞるような構造になっている。どこらへんにその痕跡があるかというと、
・私的な体験ないし内話が頻出。小林「モオツアルト」の冒頭で難波かどこかでいきなり音楽が頭に響いてきたという挿話があったけど、「シューマン」「モーツァルト変ホ長調交響曲」あたりに著者の個人的な話が登場。その個人的な体験ないし内話が論文の主題に結び付いているかというとそんなことはない。
・あわせて、生硬な観念が開陳。「音楽と思想」「耳」「詩」など、その語の意味が正確に述べられないまま、哲学風の述懐が語られる。これも論文の主題と結び付いているかというとそんなことはない。
シューマンやフランク、バルトークという音楽家から見出すのは、音楽のミューズに取りつかれ貧困や楽壇の無視などに耐えながら、世情と正反対の作品を作り、今になって初めてその価値と意味が発見されたという物語。こういう「天才」概念や類型に沿った人が取り上げられる。なので、ヨハン・シュトラウスサン=サーンスという作曲家とその世俗的な音楽は対比のために登場し、たいていけなされる。
 こんなあたり。このままのスタイルだと、たぶん奇矯な性癖(観念論を振りかざし、私小説もどきの論文を書き散らす)をもった二流の音楽評論家であっただろう。ここに収録された論文も著者のサインがなければ、読み返す必要はそんなにない。
 でもって、彼のスタイルを変える契機になったのは、やはり1954年の外遊(「音楽紀行」に詳述)にあるのだろうな。ここで「本場」の音楽を聴き、西洋の音楽評論家と交友することが重要になったのだろうと推測。そこで小田実「何でも見てやろう」のいう第2世代の西洋体験者の経験と反省がのちのスタイルを作ったのではないか。すなわち、「私」の体験の重要性が薄れ、生硬な観念がきえて日常語による記述にかわり、音楽の機能とか価値とかを柔軟にみるようになった。まあ、そのスタイルができるのはたぶん「二十世紀の音楽」1957年や「LP300選」1960年あたりからで、そこまでに10年を要している。この期間は長いのか短いのか、あるいはそこにどんな鍛錬があったのか想像してみる。