odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

奥泉光「シューマンの指」(講談社文庫) シューマンに取り憑かれた人が本体と影、実体とイデアというような二元論の罠にからめとられる。

 音楽好きの高校生たちが、シューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」をなぞって同じ名前のグループを結成し、シューマンが作った「新音楽雑誌」と同じタイトルの雑誌を発行しようとする。それくらいにシューマンへの愛情がある連中なのだ。というわけで、この小説ではシューマンのピアノ作品の主要曲が説明される。登場順にリストアップすると
ピアノ協奏曲/ダヴィッド同盟舞曲集/子供の情景/トッカータ/フモレスケ/謝肉祭/ピアノソナタ第2番/幻想曲(最重要曲!)/シンフォニック・エチュード(昔は「交響的練習曲」とされていた)/ピアノソナタ第3番/森の情景/天使の主題による変奏曲
 歌曲と室内楽管弦楽曲はほぼスルーされてしまったが、シューマンの代表作品は網羅されている、はずだ。

 主人公の語りによると、シューマンの作品と音楽は、「ずっとどこかで続いている(聞こえない)音楽が突然始まる(聞こえなくなっても音楽は続いている)」「小曲集のつながりでソナタをやる」「音楽の限界を超える音楽」ということらしい。これはどこかで聞いたことがあるような話だなあ、と思ったら、ジャンケレヴィッチがドビュッシーやサティの「夜の音楽」で書いていたのを思い出した。このフランスの哲学者は自身でピアノを弾いて音楽評論も書いているが、ドイツ音楽は忌避。しかしシューマンには偏愛を示していた。ロラン・バルトシューマンを愛した。吉田秀和の処女作(に近しいもの)も「シューマン」だった。彼らは、この不器用で誠実で、夢見がちでリアリストで、文学と音楽を同時にやろうとした人の「ロマンティシズム」に新しさをみたのだろう。そうしたうえで、「音が鳴らされなくても『音楽』はある」というテーゼが繰り返し語られるのを読むとき、ロマン主義は、現実では実現できないことに思いをはせ、どうにかして届こうとするあらかじめ敗北することが決まった戦いをする運動であったということを想起する。この小説の語り手も、そのようなシューマンに憑かれたひとり。ただ、ほかの人の評論と異なるのは、語り手とシューマンはほとんど一体化していて、語りが主人公のものなのか、シューマンの霊言であるのか、境のあいまいなところに連れていかれるのだ。
 このあたりの議論が妥当なのかどうかは判断しようがない。というのも、クラシック音楽を聴くようになって30年を超えていながら自分はシューマン(およびショパン)と良い縁を結ぶことができず、一時期2000枚近くあったCDには、シューマンの作品はほとんどない。上記の作品もほとんど知らないまま。むしろ音楽評論のほうが近しいかも(「音楽と音楽家」岩波文庫)。
 さて、あれから30年。というのは、主人公があこがれる若い天才ピアニストが演奏活動をやめてからそれだけの時間がたったということなのだが、活動再開することになったピアニストのうわさを聞く。彼は、若くして右手の指をなくしたはずだ。その直前には、だれもいない深夜の学校でシューマン「幻想曲」を演奏しているとき、女子学生が殺されるという事件に遭遇している。それまでほぼ毎日、シューマンと音楽を話し込むくらいの親密な友情にあったのが、これらの事件のあと、ふたたび会うことがなかったのに。そこで主人公はたった三回だけ聞いた演奏の記憶と、いっしょに書き綴ったノートを使って、もう一度「あのとき」を思い出そうとする。1970年代の高校時代の3年間(自分の高校時代がまさにその時代だったので、背景の空気がすごくよくわかる。著者は高校の先輩なので、小説に登場する高校は我々の高校がモデルになっているのかもしれない。校門や塀の様子、あるいはプールと更衣室の配置は似ているような気がするのだが。あ、だめだ、音楽室は別館でプールから遠く離れていたわ、残念)。
 天才ピアニストは年下にもかかわらず「凡庸」な主人公の心をとらえ、しかし、主人公の憧憬をすかして翻弄する。にもかかわらず、主人公は追いかけて彼の天才をすべて引き受けようと望む。この関係から過去の名作を思い出す。トーマス・マンファウスト博士」。この小説ではマンの大作はほのめかしすらされていないが、作家の多くの作品が幾多の名作のパスティーシュになっているとの思い出すと、それほど的を外してはいないだろう。ただ、この語り手、きわめて明晰な文章を書く知的な人であるのだが、実はとても不誠実で信頼できない。記憶は混乱しがちで、場面は思い出せても連続したストーリーにならないとか、ある細部に執着してその他を書き込まないとか、他人の好き嫌いが激しくて偏見や思い込みが随所にみられるとか。そこに留意すると、作家の仕掛けが見えてくる(この短いエントリーにもヒントがのせたので、わかる人はわかる)。探偵小説として読むと、なるほどネットのレビューにあるように「肩すかし」なのかもしれない(そういうのはよくあるからね)。でも、この小説を作中の事件の謎ときだけで読むのはもったいない。全体を覆うシューマンの作品と人生(それは小説内に何度も書かれているから、きちんと読もう)が主人公に重なり、本体と影、実体とイデアというような二元論の罠がロマン主義に根を張っているのを見よう。解説の片山杜秀さんは「影踏み」の比喩で解説していたけど、それはこのあたりのことを指している。

  


 シューマンのピアノ協奏曲はいろいろ録音があるけど、これを。「ウルトラセブン」最終回「史上最大の侵略」でBGMに使われた演奏。
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 なので、これも。
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