odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

池内紀「モーツァルト考」(講談社学術文庫) 当時たくさんいた「音楽の神童」の中で今に残るのはモーツァルトただひとり。

 モーツァルトを語ろうとすると、不思議なことに書かれた文章は重たくなるか、軽薄になるかで、モーツァルトの音楽にジャスト・フィットしたものはめったにお目にかかれない。小林秀雄カール・バルト(「モーツァルト新教出版社)のが重くなった典型だろうな。軽薄なのは、書店で手にしてすぐに書棚に戻すからタイトルは思い出せない。いくつかモーツァルトの本を読んできたけど(タイトルにモーツァルトを含むで検索したら、過去に18冊読んだ記録がでてきた)、気に入ったのはないなあ。まあ、音楽書はそういうもの(文章が音楽に追いつかない)なのかもしれないが。

 その中で、この本はモーツァルトの音楽の疾走感と透明さにかなり肉薄している。その理由は、モーツァルトとその音楽を18世紀後半の特異・ユニークな存在としてみるのではなく、あるいはモーツァルトだけをみるのではなく、同じ時代のさまざまなできごとや資料といっしょにみていること。ここはドイツ文学者である著者の強み。そうすると、モーツァルトの一生も、音楽語法も取り立ててユニークとはいえなくなり、普通かそれよりすこし英才であったということになる。なにしろ、神童を引き連れて西洋中の都市を経巡り、教皇や王侯向けの御前演奏をして、そのニュースで有料演奏会を開いたというのは珍しいことではない。ただ、たいていは中二病にでもかかるころからダメになるので、そのあとも「天才」であり続けられたのはモーツァルト一人だったという事情はある。クシシトフ・ポミアンもいっているように、このロココの時代はヨーロッパはひとつで、国境を越えて移動することは容易。音楽に限れば、イタリア語ができれば、どの地にいっても話ができるという利点があった。なので、音楽家はヨーロッパ中を放浪する。モーツァルトに限らず、ヘンデルハイドンサリエリなど生まれと仕事地と死去した場所は別々というのがめずらしくなかったし。そんなふうに著者は歴史と社会の知見を踏まえてモーツァルトを見ているから、人物を相対化できるのだね。
 重要なのは、モーツァルトの生きた時代のあとに大きな転換がヨーロッパにあった。社会や経済、思想などの巨大な変化があって、それは18世紀の否定として現れたということ。単純化すると、国民国家の誕生、そして資本主義化、科学技術の発達の3つ。新たに生まれた「市民」が18世紀までのしくみやしきたりを否定的い変革したのだった。そのために、モーツァルトの生きた時代の状況がその後の人に伝承されなかった。のちの人々は、19世紀の思想や趣味でモーツァルトをみることになったので、当時の「普通」が珍奇でユニークになってしまった、というところ。そこらへんをひっぺはがしてみて、生活人であるモーツァルトにしてみましょう、というのがこの本の主題。
第1章 時代の申し子、時代の頂点
第2章 「小さな大人」の旅の日々
第3章 手紙のなかの天才
第4章 ウィーン時代とフリーメイソン
第5章 オペラの魅惑
第6章 死の1年
 モーツァルトその人については、子供時代をすごしていなくて「小さな大人」として育つ、かなり年上になるまで大人と子供が同居(音楽に個性が刻印される30歳から大人になったとみてよい)、言葉の響きに敏感、大量の手紙は差出人だけでなく他の人に音読されることを前提に書いた、あたりがおもしろかった。他の指摘もあって、「天才」、あるいはまじめで不幸、金銭感覚のない生活破綻者というようなモーツァルトというイメージはだいぶ修正できた。著者の描くモーツァルトのほうが他の本より魅力的。
 あとはモーツァルトは作品が演奏される場所に応じて音楽を自在につくりわけた。そのときに、ディテールが聞き分けられること、装飾音につやがあること、さまざまな音色が聞き分けられることが重要。分厚い音で聴衆を圧倒しようというのは19世紀のロマン派の趣味なので、その流儀でかれの作品を演奏すると面白みが無くなるという指摘。なるほど、ベームワルター交響曲ラローチャバックハウスのピアノ、フルトヴェングラーカラヤンのオペラなどには敬意を持てても感心しなかったのそのあたりが理由か。

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<追記>
池内紀さん死去 ドイツ文学者 78歳 2019年9月5日 朝刊
フランツ・カフカ作品などの翻訳で知られ、エッセイストとしても活躍したドイツ文学者の池内紀(いけうちおさむ)さんが八月三十日、死去した。七十八歳。兵庫県出身。/ 東京外国語大を卒業し、東京大大学院を修了。留学先のウィーンでは、隣国のチェコスロバキア(当時)で一九六八年に起きた自由化運動「プラハの春」の行方を見守った。/ 神戸大助教授や東京都立大教授、東京大教授を歴任したが、五十五歳で東京大を辞して文筆業に専念。カフカエリアス・カネッティギュンター・グラスらによる多くのドイツ語小説を翻訳したほか、「諷刺(ふうし)の文学」「ウィーンの世紀末」など幅広い著作を残した。/ 九四年には「海山のあいだ」で講談社エッセイ賞を、二〇〇〇年にはゲーテファウスト」の翻訳で毎日出版文化賞を、〇二年には「カフカ小説全集」の翻訳で日本翻訳文化賞をそれぞれ受賞した。/ 他に「ゲーテさんこんばんは」で桑原武夫学芸賞、「恩地孝四郎」で読売文学賞も受けた。」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201909/CK2019090502000127.htmlwww.tokyo-np.co.jp
 たくさんの著作や翻訳でお世話になりました。ありがとうございます。