odd_hatchの読書ノート

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ヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム」(講談社学術文庫)-2

2015/12/10 ヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム」(講談社学術文庫)-1


 続けて後半。

7 伝統の欠如と生の歴史的正当化への要求 ・・・ 1871年に成立したドイツ帝国は経済的繁栄を遂げ、アメリカに次ぐ世界第2位の総生産を達成。それによって市民階級も生まれたが、あいにく彼らが政治参加して政治的決定をする伝統を持っていない。それに代わる市民のアイデンティティは歴史であったが、彼らを満足させる歴史観を生み出せなかった。
(この辺りの事情は、1980年代のこの国に似ている。経済発展で世界第2位のGNP、GDPを達成したが、「追いつき追い越せ」モデルでやってきたこの国はミッション達成後、その先のミッションを設定できない。さらに社会主義諸国の資本主義転向は政治的結束の反共理念も消失させた。統合理念と国家目標の喪失による退廃と鬱屈が1990年からの「失われた10年(20年)」になる。)
8 キリスト教的時間意識の衰弱段階。歴史的世界像の変容と解体 ・・・ 4章でみられた宗教心の発露を世俗に求める傾向は産業社会化、軍事国家化でも弱まらない。そこでは宗教の世俗化が起こる。「新しい信念の次元で古い精神が再生する」のが宗教の世俗化の特長で、ドイツ人は哲学と音楽に傾倒する。宗教の非言語的なところが音楽にぴったりで、それを言語化するのに哲学が必要だからだそうだ。そのような宗教の世俗化で信仰は失われるが、終末論と救済信仰は生き残る。それにこたえるのが、ヘーゲルの歴史哲学・進化論とその俗流社会学ランケの実証主義歴史学であったが、ドイツ人は不満だった。いずれも終末論や救済信仰にこたえるものではなかったので。そこで、歴史から「血と土」という非歴史的・前人間的な力に注目するようになる。一方、同様の宗教への幻滅は西ヨーロッパにもあったが、彼らには理性信仰・人間信仰があったので、ドイツに起きたような非歴史的・前人間的な力への注目は起こらなかった。
(この議論は面白いが、あくまでドイツという一地方にだけ適用する見方。カソリックのイタリアで、何かの信仰にまとめるのが難しいこの国で、地上的・非人間的なものへの憧憬が起こりファシズムが成立したかを説明するものではない。もちろんそれは本書の欠点ではない。)
9 カントからマルクスに至るイデオロギー懐疑の進展に見られる神という超世俗的権威の動揺 ・・・ 権威や真理とも割れていたものが再検討してみたらイデオロギーであったというのがイデオロギー懐疑ということらしい。そのような懐疑(と幻滅)がドイツでは、宗教が理性に、理性が歴史に、歴史が社会学に、社会学が生物学に、という具合につぎつぎと起きた。キルケゴールマルクスニーチェフロイトの仕事はイデオロギー懐疑の実践だった。
(でそのような懐疑のすえに、非歴史的・前人間的な力に注目し、ナチスの血の支配がおこわなれると暗示する。ナチスの徹底した合理性と神秘主義への傾倒という相反するものが同居するはたから見ると奇妙な事態は、この精神史の先にあるからなのだろうか。西ヨーロッパでもナチスの隆盛に乗っかった党派が生まれたが、それは社会の主流にはならない。それは8章の理性信仰・人間信仰から説明可能なのかも。もちろんそれだけではなくて、国家理念が成立しているとか、民主主義共和主義の政治体制の歴史があるとか、別の説明も考慮しなければならない。)
10 イギオロギー懐疑が一般化して理性という世俗的権威が動揺したこと、ニヒリズムという地盤の上で生きることの難しさ ・・・ イデオロギー懐疑がさらに一般化して、宗教と理性も懐疑され根拠を失うようになり、ニヒリズムが蔓延する。そしてロマン主義(ヨーロッパ中心主義を含めた)が求められ、血と土の支配が現れる。
(9章10章になって記述が現代(1930年代)に近づくと、筆は慎重になる。現代ドイツのニヒリズムの表れとしてマルクス主義精神分析があげられ、この章ではそれらが批判される。もちろん、一回現れる「血と土」という言葉によって、真の批判先はナチスに他ならないことがわかる人にはわかるようになっている。この迂遠な言い回しは林達夫がいうデカルトの戦略と同じ。あと気になる指摘は、宗教心の喪失により精神的権威は学問のみというところ。この時代の学問がイデオロギッシュな主張であったり、新たな知見の発見でパラダイムと転々と変わっていたりで、学問が移ろいやすいものとみなされていたのではないかと思った。多くに人にとっては科学は理解しがたいものであるので、学問の揺らぎやうつろいやすさは不安や不満のもとになったのではとも思う。)
11 失われた使命を再び探りつつある哲学、生物学が権威を持つ時代 ・・・ 産業革命と科学技術が宗教的権威を崩すことになる。西ヨーロッパでは聖俗の分離と理性的ヒューマニズムの信仰で権威の喪失は回避されているが、ドイツでは宗教の世俗化と国家理念の不在で宗教的権威に変わる精神的権威を必要とする。19世紀には学問的世界観がそれに代わったが、科学とりわけ進化論と生物学の知見がそれを揺るがした。そこでドイツ人は民族理念や生物的世界観で代替することになる。それがナチス誕生の前提になっている。後半は、それに対応できなかった哲学の貧困について。
(自分は哲学にはよそ者なので、後半の議論は興味がないのでまとめなかった。上記のサマリに付け加えれば、中世ドイツでは都市の自由は自治は相当に進んでいたのだが、ルネサンスからロココの時代までのヒューマニズム啓蒙主義に乗り遅れて(たぶん宗教改革の論争や闘争に熱中したので)、19世紀の国民国家の時代には遅れてしまった。その遅れの取り戻しないし乗り越えが19世紀末から20世紀前半にかけて、上記のような精神的・学問的な混乱になった。マルクスニーチェフロイトフッサールなどの学問的根拠を問い返す「過激な」批判者はまさにドイツにおいて表れ、莫大な影響があり、知的な混迷はこの国に起きた。その一方で、リストの国民経済学やヘーゲルの歴史哲学などの民族理念を補強するような議論もあったのだし。)
12 意識の決定の場としての哲学のマルクスキルケゴールニーチェによる破壊、そして善悪の此岸への脱出、つまりは政治への屈服 ・・・ ドイツでは宗教と国家が人間生活の全体に責任を持たなかったので、哲学がそれを代りに引き受けた。哲学は世俗化された神学となる。しかし、哲学は宗教と違って生活の指針や善悪の判断を提示することはなかったし、マルクスニーチェキルケゴールらによって哲学的理性が懐疑されて哲学の価値が下がる。そうすると、3つの急進主義が現れた。1)経済社会主義、2)プロテスタント神学、3)ファシズム決断主義(これは芸術至上主義でもある)。最後の急進主義がドイツでは隆盛することになった。
(この章では、少しだけ1920−30年代の社会情勢分析がある。第1次大戦が国家理念を崩壊させたのと併せて、インフレと不況と資産価値の急落が哲学支持基盤を没落させ、中産階級を保守化させたという。こちらの説明のほうが腑に落ちたのは、自分の興味が著者と違うからだろう。こうしてドイツ精神史を宗教の世俗化とロマン主義から説明した。)


 「遅れてきた国民」というのは、西ヨーロッパと対比してのことであって、16−18世紀の絶対王政と市民革命、啓蒙主義がなかった、ないしほとんど経験されなかったことを指す(たとえばポミアン「ヨーロッパとは何か」でさすヨーロッパとは少し異なる)。あわせてネーションはあっても、それにみあう国家の形成が遅れたのも。19世紀後半にプロシャができてようやくネーション=ステートができたが、それは市民革命の結果ではなくて、古い王室が軍事国家に変容したもので、ナショナルアイデンティティで形成されたわけではなかった。
 その代わりになる統合の象徴が哲学と芸術。12章のあるように、それらは「世俗化された神学」という指摘がとても重要。終末論や救済信仰が加わることによって、哲学と芸術(特に音楽)が宗教の代替になっていくわけだね。この国でも、1930年代あたりからドイツ音楽の熱心な愛好家が現れ、ドイツ哲学に熱中する青年が生まれたのだが、救済の宗教的感情を見出そうとしたからなのだろう。あと、笠井潔「哲学者の密室」には、1930年代ドイツの若者が決断主義の哲学、死の哲学に影響されて、それに殉じるような生き方を選択するのを書いている。その謎はこの「世俗化された神学」で解き明かせるのではないかな。
 戦術としての韜晦と、哲学専門家による詳細な記述はなかなかやっかい。マルクスニーチェ、カント、ヘーゲルなどの個別の哲学者の議論はときにすっとばしました。そこらはそれぞれの啓蒙書などを読めばわかることが書いてあるので。では、この本はナチスが生まれたことの説明として論理的・説得的な記述であるかという疑念が残る。なるほど「宗教の世俗化」「ロマン主義」などのキーワードでまとめられる説明はわかりやすく、ドイツ精神史も図式的。でも、ここでほとんど抜けている経済や政治による分析も必要だなと思った。この本だと、「宗教の世俗化」によって哲学が人間生活の全体に責任を引き受けることになったが、それにドイツ哲学はこたえきれなかったという。その指摘は正しいのかもしれないが、彼の経済分析だと1920年代からのドイツ経済は哲学を支援する人々(インテリやスノッブなど)を総じてプロレタリア化して、生活の必要に追われるようになってしまった。著者のメッセージはいったい誰に向かって発信されたのか、そのメッセージの書き方としてこの本は適切だったのか。そこは気になる。
 自分はこの本を19世紀ロマン主義と芸術至上主義への興味で読み通せたが、高踏的な記述は、哲学の本を読み慣れていないものには高い壁になりそう。