2016/01/15 大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-1
2016/01/14 大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-2
全体のクライマックスである五十日戦争が語られる。ここは水滸伝とか三国志演義のような知恵と謀略の合戦を楽しもう。こんな戦闘は読者と地続きのこの国では近代にはなかったけど、もしもあったらと想像してみたい。
第四の手紙 武勲赫々たる五十日戦争 ・・・ ここでは「僕」の出自があきらかになる。1935年と思われる年まで、村=国家=小宇宙は一人の戸籍に二人を登録していた。徴税と徴兵を逃れるということで、国家に抵抗していたわけだ。それが県や国に漏れることになり、県下の軍隊が出動する。そして村人たちは降伏するどころか、結束して50日間も軍隊に抵抗した。この抵抗のやり方が破天荒。何しろ外部からの侵入を防ぐために作った堤防には「不順国神(まつろわぬくにつかみ)」「不逞日人(ふていにちじん)」と書くのだ。この国の農民運動ではもっとも保守的な人たちがもっとも頑強な権力への抵抗者になった事例に事欠かず(蜂の巣城、三里塚などなど)、その強い決意が国家に裏切られたという思いから発しているところが共通しているのかもしれない。さらには、この村人たちの抵抗が道義的に軍隊を上回っていた(むしろ軍隊が道義的に二枚も三枚も劣っていた)というところも。抵抗と戦争の詳細はまとめてしまうとつまらないので、本文を熟読しよう。井上ひさし「吉里吉里人」と同じく、カント「永遠平和のために」が重要なテキストなので、できれば事前に読んでおきたいところ。
父=神主はこの村の余所者なので戦闘には参加しないが、参謀や伝令の役割を務める。それまで家族と別に暮らしていたのが、この期間だけ家族が集まり、そこで「僕」と双子の妹が懐妊したのだった。二人の名前は露己(つゆき)と露巳(つゆみ)という。村=国家=小宇宙の二重戸籍をそのまま継承するような名前の付けかた。「露」には日露戦争の記憶が重なる。
第五の手紙 神話と歴史を書く者の一族 ・・・ 五十日戦争に前後して生まれた「僕」の兄弟の数奇な生涯。長兄・露一は出兵後精神を病み、25年間収監されて退院したのち、皇居で決起した。終戦の条件(そのなかに村=国家=小宇宙の独立が含まれる)を天皇と話し合うために。ふたたび精神病院に入院して衰弱死。次兄・露次郎は少年時代に女形になって人気を得て、地方都市に出帆してゲイバーを開く。五十日戦争で死者の戸籍を受け継ぎ今は政府高官になった「先生」がパトロンとなる。先生のために性器切除の手術を受けて、術後に死亡。弟・露留(つゆとめ)は野球にのめりこみ、セネターズ(経営母体の紆余曲折があっていまの北海道日本ハムファイターズにつながる)と契約するものの、特異なフォーム、マナーのために一球だけの登板のあと即座に契約解除。行方不明ののちに北海道の山中でクマに間違われて射殺される。露巳は「ロミ」と名を変え、村の若者を集めるハーレムをつくり、田舎のキャバレーからはじめ銀座のクラブを開くに至る。米大統領との奇縁ができ、村=国家=小宇宙の独立援助を申し出る。CIAに追われて、末期がんと偽装し、村に戻り、村にとっては数十年ぶりの子供を懐妊する。父が誰であるかはわからない。
(第一の手紙で語られる「僕」の半生も併せて思い出すこと。)
必ずしも村=国家=小宇宙の神話や歴史を知らない兄弟たちであったが、その生涯は村=国家=小宇宙の神話をなぞるような、神話の象徴体系を身にまとうようであった。そのうえで、この一族の奇妙で、悲惨な、しかし滑稽でグロテスクな生涯のさまざまなエピソードは、作家が20年間に生み出してきた作品をパッチワークのようにして紡ぎ合わせてできたもの。そこかしこに、過去の作品のモチーフが反響している。「鳥」「政治少年死す」「性的人間」「日常生活の冒険」「万延元年のフットボール」……。あるいは光さんに由来すると思われるさまざまな行動性向なども。
第六の手紙 村=国家=小宇宙の森 ・・・ 「僕」の幼い時代の回想。きっかけになるのは父=神主の死と、妹による資料の遺棄、そして「僕」が希望した再会の拒絶。「僕」は村=国家=小宇宙の神話と歴史を書く人としてスパルタ教育を受けてきたが、それを中断することになったのは、国民学校校長と父の諍い。警察に拘束された父は、自分を擁護し学校長を告発した双子の天文学者アポ爺、ペリ爺(遠地点、近地点を表す天文学用語から)を裏切り憲兵隊に逮捕させる。その直後、「僕」は全裸で全身に紅を塗り、「死人の道」を越えて、森の奥深くに入る。壊す人のバラバラになった肉体の上を歩くことによって、回復することができるという信念に基づいて。熱に浮かされた「僕」は神話と歴史の登場人物を幻視するともに、これから起こることも同じヴィジョンの中に見出す。そこには、犬ほどの大きさに回復した壊す人を抱える妹の姿もあった(というわけで、冒頭にもどり、小説の円環が閉じた)。
ここでも過去の作品のモチーフやイメージが盛んに改変され、変形されて出てくる。「飼育」「芽むしり仔撃ち」「遅れてきた青年」……。
そうしてできた「第五の手紙」と「第六の手紙」はもしかしたら過去に書かれていたかもしれない作品を想像することになり、すでに形になってしまった過去の作品の批判として表れる。なぜそうでないものにならなかったのか、なぜそのような想像力で現実が把握できると考えたのか、など。そして、この「第五の手紙」は昭和20-40年代と時代を同じにし、「第六の手紙」は昭和10年代。しかし、小説の時代は読者の知るその時代とは微妙に異なり、妙に居心地の悪さを感じる。そこにあえて「同時代」の名がついていることで、読者は自分の歴史を相対化し、生きてきたはずの現代史がもしかしたらフィクションで、小説に書かれた「同時代」史のほうがリアルなのではないかと思うようになる。読者が自分を村=国家=小宇宙の住民とおもうようになったら、「僕」の語る時間のほうが現実になるのだ。
2016/01/12 大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-4
2016/01/11 大江健三郎「同時代ゲーム」(新潮社)-5