odd_hatchの読書ノート

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大江健三郎「ピンチランナー調書」(新潮文庫)-2

2016/01/21 大江健三郎「ピンチランナー調書」(新潮文庫)-1

 この小説は枠物語にもなっていて、なぜ書いたのか、誰が書いたのかの入り組んだ説明がある。すなわち冒頭の章の語り手は障害を持った子供を持つ小説家の「私」。同じ障害のある子供を持つ「森・父」と行動を共にしているうちに、気に入られ、ずうずうしさとなれなれしさをあらわにしながら振り回される。「森・父」が養護学校と喧嘩別れして失踪したのち、一方的に資料を送って「私」の「幻の書き手(ゴーストライター)」になれと命じる。「森・父」の普通ではない言動に興味を持っていたので、「私」は引き受け、それが2章のあとの、主人公と語り手が「おれ」になって書かれた一連の文章。
 小説家の「私」は中庸を旨として、人と角突きあわせるのができず、書斎に引きこもりがち。なので「私」を冒険に引き込ませるには、だれか人物が「私」に介入してくることが必要になる。若い時には「私」は引きずられるように一緒に行動したのであるが(「われらの時代」「日常生活の冒険」など)、すでに若いとは言えず、障害を持つ子供の世話をしなければならないとなると、「私」はもはや動けない。そこで「私」は不定期の送りつけられる情報をもとに、小説を書くことになる。この後、他人の冒険を「私」が書く小説(「同時代ゲーム」「新しい人よ目覚めよ」「キルプの軍団」「宙返り」など)が出てくるが、そのはしり。「なぜ小説を書くか」を主題にしたのも、この小説あたりから。「なぜ書くか」が小説に大事ということを書いた「小説の方法」が1977年にでているので、問題意識はこのころからなのだろう(この小説では、「私」が書くことで何か変化があったか、どう思ったかの総括がないので、問題意識は宙ぶらりん。80年代の小説ではきちんと書くようになった)。
 さて、この「森・父」の経歴がユニーク。元は原子力物理学者で、原子力研究所の研究員であった。核燃料の輸送中、左翼党派と思われる「ブリキマン」の襲撃を受けて、被爆する。その結果、原子力開発研究を引退しなければならなくなるが、世界の原子力開発と反原発反核運動の情報を収集して「大物A氏」に報告することで、謝礼を得ていた。頭部に障害を持つ子供を持ちいっしょに暮らすうち、いろいろ考えることがあり、ついに「転換」を経験する。「転換」の体験が奇妙でSF的。すなわち、一夜明けたら、38歳の「森・父」は18歳の身体に、頭部に障害を持つ8歳の「森」は28歳の身体に。それを「森・父」はUFOを媒介にした(ユングの説か何か)「宇宙的な意志」による人類改良計画ではないかと考える。国家が地球を数百回も滅亡できる核を保有しているのは、宇宙的な目的に合わないので、彼ら親子が選ばれて、核の保有状況を変え、宇宙的な意志に添えと命じられているのではないか(このあたりの妄想はのちに「治療塔」でも現れる)。ただし、「森・父」が宇宙的な意志の代弁者ではない。それは「森」の側にありる。彼は行動で意思を示し、限られた言葉でしか真意を離せない。そこで「森・父」が「森」の言葉を翻訳し、人々に知らせる役割を担う(そこで「森・父」は野球のピンチランナーとの関連を考える)。荒唐無稽なこのアイデアに「森・父」は大まじめ。その意図をしゃべり、行動するので、だれからも嘲笑され、追い払われる。宮中や市場などに笑いをもたらし、追い払われる「道化」なのだ。
(二人の言葉は、カタカナ書きの漢文調と18歳の若い荒らしい文体とで語られる。大人は日常では使わないこれらの言葉が、彼らの語る内容を異様にし、人に通じないように働く。複数の文体が小説の奥行きを作り、かつ意思の疎通を不可能にする理由になっていく。漢文調と若い荒々しい言葉は、かつての短編「セブンティーン」と「政治少年死す」を思い出した。あと「森」と「森・父」の言葉にはスターリニズム連合赤軍事件、世界革命戦争というビジョンへの批判があるが、これは当時から人口に膾炙している内容)。
 大物A氏は「森」と女子大生の襲撃でピッケル(これも当時の内ゲバでよく使用された凶器)で頭を割られる。この男の狂気は、民間で核を保有することで国家を超える権力を奪取することにある。とはいえ戯画化されたフィクサーかつ陰謀家の姿はみすぼらしいし(大きな頭に腹だけ太っているのは布袋か大黒か)、がんで衰弱した姿には威厳はない。かつての富や権力は形骸化し、豊饒さを失っている「老いた王」。そのうえ、彼の快癒を願うために集まった人々の群れがおかしい。それぞれが仮装し、祭装束を身にまとい、山車を持ってくる。快癒祈願で山車に火を放ち、狂乱を起こす。こういうフォークロア的な祝祭空間が大物A氏の周辺に漂っている。その前の左翼の集会でも、大勢の人が集まり、大声を出し合う非日常的な空間になっている。「森」と「森・父」の冒険は、宇宙的なミッションを遂行しようとする道化がこの国に突如現れたフォークロア的な祝祭空間を経巡りながら、この世の穢れを一身に集めて、スケープゴートとして燃やされるという物語でもある。ただ、王と道化がスケープゴートとして燃やされたとしても、世界が安定と豊かさを取り戻し方かどうかは定かでない。いやむしろ、混乱がいや増し、山車の炎は世界を覆い尽くすほどに大きくなるかもしれない。「燃える森」に慟哭する「森・父」の「リー・リー」という叫びが、破滅の到来を予感させる。
(そういう主題からすると、「ピンチランナー調書」は初期の「芽むしり仔撃ち」の語り直しだし、のちの「宙返り」の先駆でもある。そういえば3つの作品には大きなかがり火がたかれるなあ)。
 読書中、物語の面白さにフォーカスできなくて、関連作品のことばかりを考えてしまった。1970年代の左翼運動や市民運動の風俗は懐かしかったけど、そこにはもう共感できないし、のちの「同時代ゲーム」「新しい人よ目覚めよ」に洗練されてもいないので、今日的な小説ではなくなった。作者の不安や抑うつの気分はよくわかるけど。