odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

大江健三郎「文学ノート」(新潮社)-2

2016/02/01 大江健三郎「洪水はわが魂に及び 上」(新潮社)-1
2016/01/29 大江健三郎「洪水はわが魂に及び 上」(新潮社)-2
2016/01/28 大江健三郎「洪水はわが魂に及び 下」(新潮社)-1
2016/01/27 大江健三郎「洪水はわが魂に及び 下」(新潮社)-2


 エッセイとは別に付=15編という断片が収録されている。4-6ページくらいの小さいもの。いずれも「洪水は我が魂に及び」の改稿作業で消されたもの。
隠れ家/転換/家族/自殺する幼児/光/悲哀/少年犯罪団/未来/朝鮮人/革命/言葉の専門家/歯/傷洗い/結婚/大洪水後

 「消すことによって書く」によると、削除したのはおもに登場人物の来歴に関することという。ここには本編では来歴が詳しくなかった数名の人物の過去が語られたりする。「縮む男」「ドクター」「怪(け)」など。なるほど、これらの人物は勇魚や喬木のような詳細な説明がなく、わずかな出演場面ですこしばかりの過去を吐露していた。消された断章が加わったとして、小説全体のふくらみはでたかというと、そうは思えず、小説家の判断は妥当だったのだなとおもう。
 周辺の人物描写を削ぐことによって、小説の目と観照は勇魚ひとりにフォーカスされる。それによって、勇魚の社会や世界の認識と未来のビジョンが明確になり、それが小説の主題になるわけだ。小説に夾雑物を加えるのではなく、勇魚の目と観照に限定する、読者には「禁欲的」に見えるやり方が小説の方法である。これはそのあとの「ピンチランナー調書」でも踏襲される。その方法が妥当であったかはそのあとの作品で分かるだろう。
 さて、削除された断章イメージは「洪水は我が魂に及び」の完成によって、すべて破棄されたかというとそうではない。すでのこの後の作品を読んできたものにとっては、本編には収録されず、断章として削除されたところに、のちの作品のテーマや想像力が萌芽のように現れているのを見る。
・頭に障害を持つ子供ジンとの生活のさなか、勇魚は自分とジンが入れ替わる夢を見る。それは「ピンチランナー調書」に引き継がれる。
・勇魚は、歯痛に悩まされるが、歯医者にいきたがらず、自力で治療しようとする。コンクリートか金属片を口中に突っ込み、虫歯を掘り出そうとして、口中を血だらけにする。その痛みとスプラッシュな光景は、「身がわり山羊の反撃@現代伝奇集」で繰り返される(もしかしたら、「同時代ゲーム」の第1章でも歯痛の描写があったかもしれない)。
・勇魚は幼年時代に傷を洗っては、再び出血させる(21世紀の湿潤療法からするとこの処理は正しい)。その行為は村の子供らの嘲笑を浴び、彼を孤立させる。この幼年時代は「同時代ゲーム」で詳しく語られる。
・喬木の幼年時代の回想は森と巨大な樹木にむかうのであり、それは「同時代ゲーム」第6章での「僕」の体験で詳述される。
・1945年8月15日の敗戦によって、喬木の村は混乱する。そのときに母が村のリーダーシップをとって、危機から回避する。権力とは無縁であるが、人々に影響する「母」のモチーフは「もうひとり和泉式部が生まれた日」「『罪のゆるし』のあお草」「いかに木を殺すか」(いずれも「いかに木を殺すか」文春文庫)で繰り返される。その血をひくものとしての女性が「懐かしい年への手紙」などの妹や叔母らになり、「治療塔」「燃え上がる緑の木」などの女性の語り手となる。

 「言葉と文体、目と観照」によると、文体はひとつの長編にひとつで、本質的かつ一回きりの今であり、他の作品には使えないとされる。なるほど「洪水は我が魂に及び」の文体は、翻訳調の極めて硬質の文体であった。この文体に近いものは、デビューから小説家にはなじみのものであった。この文体だと、勇魚のほぼモノローグであり、告白。聞き手のいないどこでもないところで、ぶつぶつつぶやいているだけになる。そのような社会から孤立された話者のひとりがたりを聞く。そこから読者は、想像力を駆使して、作家との距離を縮め、社会性を生み出す作業になる。
 そのような孤立した話者の文体はおそらくこの小説で終わる。この後の「ピンチランナー調書」では「森・父」が「僕」に向けたメッセージを「僕」が批判的に書き直すやりかたになる。「同時代ゲーム」では「僕」が妹に書いた手紙という形式になる。その文章を読む/聞く具体的な人を想定した文体だ。具体的な人を想定した語りかけでは、自分の内面をそのまま映しだすこともできるが、そこに突っ込みが入ることを想定して、説得や納得させることや、反論や弁解をすることも文章の中に組み込むことになる。報告と批判がまじりあうようになって、テーマや物語を複数の目や観照でみることになる。小説家はそのような文体が小説を豊饒にすると考えて、実作に反映した。ここでも「小説の方法」で獲得した技法の先取りが見られる。