odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

ジョン・G・バラード「奇跡の大河」(新潮文庫)

 西洋で成功することのなかった医師マロリーは砂漠化の進む中央アフリカに国連の一員として派遣されていた。任務は井戸を掘って周囲を農地化すること。彼の試みを拒否するように、採掘しても水源にぶつかることはない。その土地は、軍事政権の政府軍と独立をめざすたぶん左翼ゲリラが抗争する場所。日替わりで彼らがやってきては、退去するようにという。政府軍が周囲を制圧したとき、12歳の少女ヌーンをとらえた。銃殺になるところをマロリー医師は防ぐと、彼女は医師の周りを徘徊するが、決して近づかない。

 この国連やアメリカやソ連に忘れられた土地には、世に住処のない人が引き寄せられる。日本人カメラマンミス・マツオカ、銃殺された獣医の未亡人ノラ・ウォレンダー、いかさま科学解説家サンガーなど。彼らは互いに敵視しあい、険悪な状況でいながら、政府軍とゲリラの圧力をかわそうとする。
 政府軍が制圧し医師が退去を決意した日、砂漠から突如水が噴き出した。それはとどまることを知らない量になり、干上がった湖を飲みつくし、人々の拠点を押し流し、捨てたゴミを浮かび上がらせた。川の所有権を政府軍から買った医師マロリーはディーゼル汽船を奪取し、水源を突き止める旅に出る。井戸掘りの意図を挫いた川を抹殺するために、同乗するのは少女ヌーン一人。6週間分のコメを携えて、北に向かう。その汽船には政府軍の将軍が所有するメルセデスがのっていたために彼らは政府軍に追われることになり、西洋人のよそ者もマロリーの後を追う。
 初出は1987年。川を遡上し、水源に至ろうとする。その試みは科学的な探索ではあるが、一方で探検者の自己確認・自己回復の旅でもある。そういうフィクションはバラードが始原になるのではない。なので、読みながら先行するさまざまな始原への旅の物語を思い出した。カルペンティエール「失われた足跡」ワトソン「マーシャン・インカ」リョサ「緑の家」、あるいはヘルツォーク「アギーレ神の怒り」、ジョフィ「ミッション」などの映画(ほかに別の人の指摘でコンラッド「闇の奥」、コッポラ「地獄の黙示録」を追加)。中年男性が少女を連れてさまようなんていうのは、ナボコフ「ロリータ」やカヴァン「氷」だな。そんな具合に、この小説にのめりこめずに、雑多なイメージや読書の記憶をたどることになったのは、医師マロリーの始原探査の旅が極めて身勝手で、独りよがりであるところだな。水源をたどる旅の目的とか動機は狂気としか思えない。さまざまな同乗者(少女ヌーン、科学解説家サンダー、インド人の博物学者ミスター・パル)や関係者(ウォレンダー、政府軍のカグワやゲリラ軍のハラレなど)へのかかわりの仕方は傲慢そのもの。アフリカの民衆に対しても西洋優位の視点を捨てない。少女ヌーンへのまなざしも男が女に抱く抑圧の衝動なのだし。先行する諸作品が「始原」に対する敬意や畏怖を感じているのに対し、マロリーは敵視と破壊意思しか持たないし。
 場所や主題は、60年代の「結晶世界」「燃える世界」の再話になるのだろう。どちらも数十年前に読んだきりなので細部は覚えていないが(いや別の人の指摘によると「沈んだ世界」とのこと)。1960年代では世界の側が破壊してきて人間や語りの主体は受け入れるしかなかったのだが、こちらでは人間や語りの主体が世界の破滅を欲望し、世界や自然はそれに抗いきれないという図式になっている。
 そのうえ、自然と言っても、バラードの認識ではもはや無垢で豊穣で生産的な場所ではない。砂漠といえどもいたるところに人間が生活・労働していて、大量のごみが投棄されている。大河が噴き出ると、その埋没物が浮かび上がり、油他が漏れ出て周囲を汚染していくのだ。人間は自然を制御することはできなくとも、抑圧し汚染することができた。そうでない場所は地球上にない。なので、自然はもはや人間の対立項にはならない。むしろ人間を囲むのはテクノロジーとその工場生産物。マロリーと関係者は、カメラ、テレビモニター、ビデオ再生器、スピーカーなどなどを持ち込む。現地の少女ヌーンは人や自然よりもモニターに映る映像に熱中する。そんな具合に人間と自然とテクノロジーの関係は1950年代以前の冒険小説のときのような調和を持てない。「テクノロジー」を途中に挟むことによって、ひとは自然を「リアル」であると思うようになる。身体に触れる自然は拒否するものになる。このテクノロジーのみかたは1980年代に典型的だったなあ(TVモニターをならべて廃墟の映像を移すようなやつ。たくさんのアーティストが模倣したイメージ)。
 今の自分にはこの構図から世界を認識する新しい視点は持てないなあ。好き放題して、関係者のあらかたを死亡させ、アフリカを困窮させた一方、自分ひとりが文明世界に帰還して健康になり、水源への冒険は「夢」のようだったと述懐しておしまいというのは傲岸不遜そのもの。