odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

笠井潔「三匹の猿」(講談社文庫) 私立探偵・飛鳥井シリーズの長編。日本の「父」はあまりに弱弱しく象徴的な父殺しができず、母性の甘ったるさに取り込まれる。

 私立探偵・飛鳥井シリーズ。現在(2015年)までの唯一の長編。1995年初出。
 飛鳥井は1940年半ばの生まれと想像できて、20歳前後の若いころにアメリカにわたり、私立探偵の仕事をする。現地の女性と結婚したが、折り合いが悪く、エイズで亡くなった後、帰国して、巽探偵事務所を引き継いだ。1970年代アメリカのドラッグ文化、1980年代のエイズ禍を経験したという経歴はこの作品では強調されない。まあ、社会でも家庭でも成功せずに一人暮らしを余儀なくされた社交性の低い中年男性というところ。

 さて、暇な事務所に女子高校生・田之倉有美が来て、父を捜してくれという。戸籍を見ても父が書かれていない私生児。まあ、やってやろうと義侠心をだして、まず母親を調べる。そうするとおよそ20年前、学園紛争時の大学で長編小説研究会というのをやっていた。そこには、中条晃一(小説の新人賞を受賞後、失踪)、長谷部雅人(現在作詞家で大成功)、桝本(バリスト参加で逮捕、釈放後自殺)という男性と、江原克子(のちに結婚して藤森姓となる)、津田芳枝(長谷部と結婚)、田之倉千鶴(上司高校生の母。中条と同棲した後別れ現在独身で会社経営)の女性のグループがあった。彼らは学園紛争の時代に、つきあう相手を変えていて、現在に至っている。それぞれ異なる性格、行動性向の持ち主で、それは中条の書いた小説「三匹の猿」に反映しているらしい。すなわち、日光東照宮の左甚五郎作にあるような「見ざる、言わざる、聞かざる」の性向をそれぞれが持っているというのだ。そして千鶴は、有美に父の名を教えない。
 飛鳥井は彼らの話を順に聞くうちに、それぞれの息子や娘の問題もみつける。すなわち、藤森克子は夫と別居状態で、息子・優の東大合格に執着し、娘・潤子には関心を持たない。長谷部と芳枝の娘・響子もまた父には関心を持たれず、夜な夜な都会をあそびまわる。失踪したはずの中条は3流週刊誌のトップ屋で、長谷部の弱みを握ろうと追いかけているらしい。千鶴の周辺には援助交際をしている高校生グループがあるらしく、千鶴も巻き込まれているが、その後には手引きをする大人がいるみたい。そして、小渕沢周辺で、目・耳と切り落とされた女子高校生の死体が発見される。有美と最後にあってから2週間たち、死体は有美であるかもしれない。飛鳥井は小渕沢にアメ車を飛ばす。
 1990年代にはすでにこの国で私立探偵ものが書かれるようになっていた。その一環にあるような作品。作者の弁では、「現代」のこの国の問題を取り扱うため、といっている。実際作中には当時人口に膾炙した女子高生コンクリート詰め殺人事件の言及があるが、それと小説との関連は薄い。せいぜい、現実の事件の犯人たち(未成年)が中流の家庭にそだち、しかし内部では家族が機能していないという類似がある程度。また、この国を舞台にハードボイルド小説を書くことの苦労についても言及がある。そのことの成否はよくわからない。むしろ解説にある一人称探偵小説で、「フーダニット」が可能か(すなわち犯人に目星をつけた瞬間やそのあとの検証の過程が故意に描かれないことのフェアネスについて)の議論が面白かった。
 そのことより自分が気になったのは以下の点。
・目、耳、口が傷つけられた3つの死体をめぐる事件というふうにとらえ直すと、この小説のプロットは矢吹駆シリーズの「薔薇の女」の酷似。実際に犯行の動機や欲望は前作と同じ。あいにくこちらのハードボイルドでは哲学的理屈付けをする人がいないので、犯人のだめっぷりばかりがめだった。
・現在の事件である3つの高校生殺人事件の背後には、3つの家族の20年前の体験が強く影響している。それもまた矢吹駆シリーズと同じ。ただ、矢吹シリーズが第2次大戦のレジスタンス、絶滅収容所などの限界体験にある一方、こちらでは大学封鎖中のバリスト。テロルや内ゲバなどの激しい暴力や国家の暴力・戦争が背後にないぶん、矢吹シリーズほどの衝撃力はなかった。むしろ中年男女が自分らの息子、娘と理解しあえない1990年代の問題のほうが切実になる。もちろん私立探偵である飛鳥井は西連寺同様に家族に深く関係しようとはしない(「ダウンタウンの通り雨」「不等辺三角形@死体置場の舞踏会」など)。それはリュー・アーチャーもそうだ。
・主題は有美の依頼による父探し(ないし父への復讐、象徴的な父殺し)。これはアーチャーの主題でもある。1950-60年代のサンフランシスコでは、アーチャーと依頼人のみつける「父」は強力な力や支配力を持っていた。でも、1990年代のこの国では最後に見出す「父」のなんと弱弱しいこと。支配する力のないこと。そのような強力な父権はそれこそ15年戦争で無くなってしまったようだ(横溝正史の戦後作品が喪失した父権の跡継ぎ争奪戦だったなあ)。学園紛争でも学生に対抗する強力な父権はでてこなかったし。そのときの学生の子供の世代になると、象徴的な父すらいないというわけか。代わりに現れるのは、母性の甘ったるさ。なにをしてもいいのよと守り包み込む。その中に温もっている限りは、社会の軋轢や世界の問題にさらされずに済む。私立探偵が発見するのはこういう家庭。スペードやアーチャーは父の支配する家庭に介入してときに「正義」を実行しろと介入することもあったのだが、この国で向かい合うのは論理や言葉では変化しそうにない「包み込む母性」、そこで男性の私立探偵は家庭に何ができるだろうか。
 国産ハードボイルドをうまく作るのは難しいのだなあ。

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