odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

笠井潔「道 ジェルソミーナ」(集英社文庫)

 私立探偵・飛鳥井の第1短編集。出版は長編「三匹の猿」がはやいが、短編のいくつかは先にでていて、「硝子の指輪」では飛鳥井の過去が詳しい。

硝子の指輪 1993.05 ・・・ 飛鳥井の初登場作。アメリカでの結婚生活と破綻が詳しく語られる。私立探偵の不安定な仕事と明日会の徹底した個人主義、そしてHIVウィルス罹患を知らされて、妻が自殺する。それへの慚愧とか後悔とか責任とかは、飛鳥井の中で整理がついていない。
 さて、ある大学教授がNYで知り合った女性を探してほしいと依頼する。資産家の妻との関係が冷え切り、若いタイ人女性と結婚することにしていた。そこにHIVウィルス罹患の事実を知り、直後に殺される。捜索依頼のあった女性も殺されて、タイ人女性は別荘で発見されて、容疑を否認している。ではだれが・・・。HIVウィルス罹患が致命的な疾患であった時代。さまざまな偏見がここにはあり、21世紀に読むと、座り心地が悪い。スーザン・ソンタグ「エイズとその隠喩」(みすず書房)を参照のこと。

晩年 1994.03 ・・・ ある老嬢からの依頼。脳梗塞で倒れた老婆が次男に会いたがっている。次男は、昔バンドを組んでいたころに、グルーピーの女性を殺し、10年の懲役を食らった。最近、放免されたのだが、行方不明になっている。老婆は不自由な口で太宰治の「晩年」という。発見した次男は翌日殺されているのが分かった。ここでは母と息子の関係。出来の良い長男とぐれた次男。過去の殺人と現在(1990年代前半)の地価上昇が家族を解体する。真相のあと、もう一つの悪意が明らかになるが、それは法では裁けないできごと。
銀の海馬 1995.04 ・・・ 主婦から数年前に失踪した父を捜してほしいと依頼された。冷蔵庫の開発担当だった父は、リストラで閑職に回されてからDVが激しくなった。すでに結婚していた娘はその事実を知らない。妻は寂しい家で一人暮らし。現在ニュースキャスターをしている夫の弟だけが頻繁に訪れている様子。新宿でホームレスをしているという情報があったが、監視している前で自動車に乗り行方不明に。翌日、泥酔した挙句の凍死体で発見された。バブル経済の破綻から抜け出せず、企業が人員整理とコスト削減に懸命だったころ。経済苦による自殺者(富士樹海の知名度が上がったのはこれが原因)やホームレスが増えてきたころ。

道――ジェルソミーナ 1996.02 ・・・ 結婚相談所を経営している60代の女性から、最近結婚した夫婦の夫が見えなくなっているので見つけてほしいと依頼があった。前の妻とは離婚している。結婚相談所に行き、オペラの趣味が合うという女性と結婚することになった。行方不明になった直後から妻もいなくなる。そして、夫は自殺死体で見つかり、妻の両親が所有しているマンションで妻の刺殺体が見つかった。結婚相談所の経営者は死体を見て、この人は紹介した人ではないという。資産家である夫の自宅からは数億円の現金が盗まれていた。カギになるのは、結婚の前に夫が宝石店「ジェルソミーナ」で買った時価一千万円の宝石。もちろんこの店名からフェリーニの映画を思い出すわけであるが、当然ダブルミーニング


 本格探偵小説として見れば、プロットは見事。謎の不可解さを明解に解き明かすのは快感。
 でも、不満が残るのは、犯罪の動機や被害者の悩みや確執を描くには枚数が足りないところ。なるほど、東南アジア女性の人身売買的な不法入国、エイズ禍、ホームレス、結婚できない男女など1990年代半ばの問題は、その当時を知っているものには懐かしい思いになるが、さてそのツッコミの深さはというと、矢吹駆シリーズの戦争と大量の死者の考察には比べることのできないほど表面的。社会問題を週刊誌風に並べてみました程度。そのうえ、飛鳥井は事件の関係者への関心は希薄。事件の真相を知って立ち竦んだり、犯罪が発覚して呆然したりする関係者に同情も憐憫も寄せないし、未来を予測することもしない。この酷薄さは市井の事件を描くハードボイルドの場合には欠点になる。矢吹駆も酷薄ではあっても、彼は自分の問題を持っていて、事件との関係を一生懸命考えるからね。飛鳥井はアメリカで社会と家庭の適応に失敗して後悔しているわけだが、何が問題だったのかはっきりつかんでいないみたい。その後悔も現在の事件の関係者に投影することもしない。そういう「非人情」なところがこの作品を記憶に残さない理由。作者のファンかハードボイルドの好事家のみが読めばいいでしょう。
 そうそう、飛鳥井は暇なせいか、思いがけず読書家。ホイジンガ「中世の秋」、デュマ「ダルタニヤン物語」、ノージックアナーキー・国家・ユートピア(書名はでないがたぶんこれ)」を作中で読んでいた。