odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 上」(東京創元社)-1

 ヨーロッパ中世のことを書いているので、事前に、 鯖田豊之「世界の歴史09 ヨーロッパ中世」(河出文庫)の以下のエントリーを読んでください。
2016/03/29 鯖田豊之「世界の歴史09 ヨーロッパ中世」(河出文庫)-1
2016/03/30 鯖田豊之「世界の歴史09 ヨーロッパ中世」(河出文庫)-2
2016/03/31 鯖田豊之「世界の歴史09 ヨーロッパ中世」(河出文庫)-3
2016/04/01 鯖田豊之「世界の歴史09 ヨーロッパ中世」(河出文庫)-4


 1327年の秋に北イタリアの修道院で起きた連続殺人事件。1980年に世界中でベストセラーになった。この国で最初に紹介されたのは1981年冬のことだったか。新刊予告に入ったもののずっと音沙汰がない。この国では翻訳より先に、1986年制作の映画が1987年の終わりに上映された。結局、邦訳を読めたのは最初の紹介から10年を経た1990年。とても待たされた。

(初公開時のパンフレット)


 小説の翻訳の直後に「薔薇の名前」の研究書がたくさんでたし、アリストテレスの「詩学」も文庫に入るなどしたので、この小説の研究はいろいろでている。手元には雑誌「ユリイカ」の特集号1989年もあるが、それらは目を通さずに再読の感想を書いてみることにしよう。

 事件の概要に入る前に、この時代や場所をみておきたい。
・9世紀から10世紀にかけて鉄器具と家畜がようやくヨーロッパに普及する。鉄の農具を馬や牛にひかせることで、人が鋤くより深く耕すことができるようになり、生産性があがった。あわせて三圃の農法も普及し、連作による障害を克服できるようになった。それは深い森に囲まれて、海の中の孤島のように住んでいた人々を結びつけて、小規模血縁集団や部族社会くらいの集団しか作れなかったヨーロッパの社会がより大きな集団をつくるきっかけになる。複数の首長社会が教会や王によって統合されていく。14世紀になると、世俗の権力が教会の権力と拮抗できるくらいまで大きくなっている。教会の権力も分裂して、現地の世俗権力の応援が必要になっていた。なので、だれが教皇になるかは教会のみならず王権の帰趨にも影響する(だから、この修道院に各地の教会の高位者が集まり、不在になっている教皇の継承者を決める)。
・ヨーロッパは深い森におおわれていて、地域ごとに言語が異なっていた。しかしこの小説に登場する修道僧、学問僧は言語に不自由しない。それは当時の知識人はラテン語を読み、書き、しゃべれるように訓練していたから。ラテン語が共通語になっていたので、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、北アフリカなど生まれの異なる修道僧はコミュニケートすることができた。知識人の階級においてはヨーロッパは文化的に統合されていた。一方、市民や農民は各地の言葉を使う。異端の疑惑をもたれ各地を放浪した経験を持つサルヴァトーレは各地の言葉をごったまぜにした独自の「世界語」を発明する。市民や農民などは文化的に分断されていた。キリスト教は数少ない共通文化であった。
・11世紀からの十字軍遠征はさまざまな影響をヨーロッパに起こしたが、ここでは文化面に注目。肥沃三日月地帯に巨大なイスラム帝国があった。社会体制、文化、技術、軍事などにおいてヨーロッパを凌駕していたが、それは中世期を通じてヨーロッパは認識していない。十字軍遠征でアラビアやイスラムの先進文化に接触することにより、ヨーロッパの文化が活性化する。それはアラビア語に訳されたギリシャ、ローマ時代の文献を読むことから始まる。アリストテレスの哲学をキリスト教神学と結びつける研究がすすめられた。なので、この修道院ではアラビア語ほかで書かれた文献をラテン語に翻訳する仕事が行われている。
・十字軍遠征に触発されて地中海で貿易が行われるようになる。決済を便利にするために、貨幣が使用されるようになる。物納から銭納に代わる。物納と物々交換に頼ってきた旧勢力は貨幣不足とインフレで力を失う(なので、貨幣を獲得するための商売に教会が手を出すようになる)。イタリアの海港に、商人都市がつくられ、商人たちは路上で議論をして都市を運営するようになる。貨幣経済とともに起業と商業の自由をもとめる民主主義の初期形態ができる。
・ヨーロッパの宗教改革は16世紀のルター以降が有名だが、14世紀にも宗教改革があった。修道院が広大な所領を持っていて、10分の1税などを徴収することで富を蓄積する。修道院自体も小説にあるように食料品加工、酒醸造、鉄やガラス器具生産、医薬品製造をし、それらの販売で利益をあげていた。なかには華美で豪奢な生活をするようなところが出てくる。それに対する批判が内外から起こる。小説にでてくるフランチェスコ会が有名。彼らは教会の富の蓄積と商売を批判し、資産の放棄と清貧を教会と修道院に求めた。このようなカウンターに対抗するように、教会は異端審問官制度などで対抗する。
(カタルーニア‐南仏プロヴァンス―北イタリアで多数の信徒を得たカタリ派が異端に認定されて、1221-29年のアルビジョア十字軍が修道院に立てこもる信徒を虐殺した。100年前のこの事件が小説の背景にある。アルビジョア十字軍は堀田善衛「路上の人」を参照。カタリ派の登場する笠井潔「アポカリプス殺人事件」は参考程度に。)
・1327年の直後に、ペストが大流行し、全人口の大半が死亡するというパンデミックを経験する(このあと定期的にヨーロッパでは感染病が大流行)。詳細は村上陽一郎「ペスト大流行」岩波新書を参照のこと。ヨーロッパ社会の縦方向と横方向の流動化を促進する。と同時に、自然選択によってヨーロッパの人々は感染病に強い集団になり、のちの新大陸への侵略で優位に立つことができた(ジャレド・ダイヤモンド「鉄・病原菌・銃 上下」草思社文庫)。

      


2016/04/05 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 上」(東京創元社)-2
2016/04/06 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 上」(東京創元社)-3
2016/04/07 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 下」(東京創元社)-1
2016/04/08 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 下」(東京創元社)-2
2016/04/09 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 下」(東京創元社)-3 に続く。