odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 上」(東京創元社)-3

2016/04/04 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 上」(東京創元社)-1
2016/04/05 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 上」(東京創元社)-2 の続き。


 聖職者と知識人は文化的に統合し、各地を移動する権利を得ていたが、ほとんどすべての農民は移動の自由がなく、生産性が向上しても生活は貧しいままだった。教育の機会もなく、階級や職業を離れて上昇することもかなわず、自分の生れた土地で生活しそこで死んだ。彼らの生活を救えない(一方で豪奢な暮らしをする高位の聖職者がいる)という状況は、平信徒と彼らに近い聖職者には耐えがたいものになる。そこで宗教改革の運動がおこる(アジアのわれわれにとっては、ヨーロッパの宗教改革運動は16世紀におきたプロテスタントのものが有名だが、その200年前にも起きていたのだ。異端審問や魔女狩りも古い宗教改革期に起源があり、数百年も継続する。ちなみに13世紀初頭には、この国でも宗教改革運動が起きている。法然親鸞日蓮らによるそれぞれの改革運動や分派運動がそれ。のちの「ヴ・ナロード」のスローガンに似た民衆のなかへ宗教者は入ろうという運動。ここは網野善彦「日本の歴史をよみなおす」ちくま学芸文庫が参考になる)。
 年若いアドソは、なぜ異端が生まれ、彼らが弾圧されるのか理解できない。そこでウィリアムは解説する。まずは生活に不満をもつ平信徒(ここではほぼ庶民ないし非聖職者と同義。原則としてすべての人は教会に所属していたから)がいることから始まる。彼らの根強い不満(貧困と格差、特権階級からの差別など)を統合し組織化される。その中心には、特権層から疎外された地方の貧乏な聖職者がいて、正統の教えを曲解したり一部を拡大して、組織の統合と拡大を図った。組織された人々は、平信徒からも疎外された社会の排除者(ここでは「らい病者」と総称される。原文のまま使用)をさらに差別したり、特権層の財産や生命を奪うような行為までをする。このような行動を特権者は「異端」とする。特権者は異端を排除しようとするが、建前は教義のおかしさないし正統からの逸脱であり、犯罪行為を断罪することにある。それはウィリアムがいうには教会が特権を失う恐れを持っているから。異端や平信徒を苦しめている原因を解決しようとすると、権力の側の不備や法治が暴露される。なので、世俗権力も教会権力の異端弾圧に加担する。一方異端とされた側も教義の「たわむれ」を繰り返し、新たな被排除者をつくり、格差と差別を拡大し、殺戮を繰り返す。
 この説明は14世紀の論理と用語を使ったものなのでそのままでは現在に通用しない。しかし、ウィリアムが説明する構造は1970年代のヨーロッパなどの「西洋(この国も含む)」の実情に当てはまる。すなわち、異端とされるものは当時の市民運動や労働運動であり、そこにはさまざまな新左翼党派が入り込み、ほんのわずかな差異しかない理念や教義に基づいて「異端」同士が抗争したり、市民に向けたテロがあったりした。政治権力と総資本(当時の用語を使用)は結託して「異端」たる市民運動や労働運動を弾圧し、関係者を逮捕収監していた。この事態に現代の聖職者層になるインテリ、知識人は弾圧や抑圧に抗議することなく、この修道院の修道僧と同様におしゃべりをし、無秩序に右往左往していた。
 この中世のことばを使って現在の問題を照らし出しているのをもうひとつ。文書館はある人の意思によって、あの本を隠し続けようとしていた。その理由は修道僧のような聖職者が「笑い」を利用することを恐れたためだ。もちろん笑いは庶民や平信徒のような知識から疎外されているものには常にあり、生活の苦痛を一時的に忘れる効能をもっている。しかし聖職者があの本で笑いの効用に気付くのは、神の言葉(ここでは権力とほぼ同義)の威力を地におろすことになり、それをあの人が権威づけるから。笑いは現在の秩序を解体し、意味を多義的にし、権力を相対化する。たとえば西洋のカーニバルでは王侯貴族と庶民の役割が交代され、仮装で自己から離れ、王様の人形を焼いて世俗権力を一時的に無効にするのだ。カーニバルのような一時的な祝祭は庶民や平信徒の中で行われている限りは問題ないが、聖職者の日常まで浸透すれば、神を頂上に置く主従関係が逆転し、権威が崩壊する、いやしかねない。それが特権階級にとってのハルマゲドン。危機は外部から訪れるのではなく、内部の浸食と変異で起こるのだ、というわけか。

「反キリストは、ほかならぬ敬虔の念から、神もしくは真実への過多な愛から生まれてくるのだ。(略)恐れたほうがいいぞ、預言者や真実のために死のうとする者たちを。彼らこそは往々にして、多くの人々を自分たちの死の道連れにし、ときには自分たちよりも先に死なせ、場合によっては自分たちの身代わりにして、破滅に至らしめるからだ。(下巻P370)」

      


2016/04/07 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 下」(東京創元社)-1
2016/04/08 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 下」(東京創元社)-2
2016/04/09 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 下」(東京創元社)-3 に続く。