odd_hatchの読書ノート

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ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 下」(東京創元社)-2 中世修道院の文書館で起きた事件の関係者は書物に関係するものだけ。犯人捜しは秘匿された文書の行方探しである。だれもが本を読みたがる。

2016/04/04 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 上」(東京創元社)-1
2016/04/05 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 上」(東京創元社)-2
2016/04/06 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 上」(東京創元社)-3
2016/04/07 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 下」(東京創元社)-1 の続き。


 小説の主題のひとつは「読む」。中世修道院の文書館で起きた事件であり、関係者は翻訳、写字、挿絵、研究など書物に関係するものばかり。犯人探しはほとんどそのまま秘匿された文書の行方を捜索することに重なる。本を読みたいという欲望が彼らを突き動かしている。
 「読む」対象は本だけではない。冒頭、ウィリアム・バスカヴィルが道に残された足跡、折れた樹木、枝にひっかかった長い鬣などをみて馬の行方ばかりか名前まで当ててしまう。読む対象はこのようにテキストに限るわけではない(しかもこの修道院には研究生がたくさんいるので本とテキストに関する議論は日常茶飯事)。他に読まれたのは、暗号、図像、建物、比喩、地図、植物、思想などなど。これらはいったん記号に還元される。記号になれば、そこには優先順位がなくなり、あるゆるものを同一基準で並べられる。そして記号は再び解釈される。その繰り返しと合理的な論理(アリストテレスの三段論法がなんども使われる)によって真実や神の意志に到達することができ、世界の秩序を把握することができる(顕著なのは文書館の構造。現代図書館のような分類ではない方法で分類され、世界地図を模した配架がなされている。書物の並びがそのまま世界の秩序に通じる。

 ウィリアムは暗号を解くように配置の構造を調べる)。このような方法でウィリアム・バスカヴィルは修道院(とりわけ文書館)と事件を読もうとする。この時代の思考は神学ないしスコラ哲学であるが、ウィリアムの思考は近代哲学(デカルトあたり)や自然科学を髣髴するようなところまで踏み込んでいる。まあ、クーン「コペルニクス革命」などをみると、近代哲学や自然科学はある時点で一気に変化が起きたのではなく、思考や方法もグラデーションを持って次第に変化していったというのがわかるので、ウィリアムのような思考者が中世にいても不思議ではない。
 とはいえ、事物を記号に変換して事物の価値や意味をいったんかっこに入れてから思考するという方法が万全であるわけではない。たとえば、ウィリアムはラテン語ギリシャ語には堪能であったが、イタリアの俗語には無知であった。なので同時代のダンテ・アリギエリの書いたもの(「神曲」)を読むことができず、価値を認めることができない。アドソも同じで、村のことばがわからないので、娘の名前を知ることはできず、本心を確認することができない。観察者の能力が記号の判読可能性を決めてしまう。
 そのうえ、ウィリアムは天使の情熱と悪魔の情熱は区別できないという。これは異端審問官をやめたときの理由の一つ。たとえば清貧や無所有を目指す運動があったとして、それが正しいか悪かを情熱や思想の内容では決めかねるということだ。異端は資産もちを襲撃して勝手に飲み食いし人を殺したりもし、一方異端審問官は密告を受け入れて無辜の人々に火刑を施したりする。このような正義の相対性に記号を読む行為では判断を下すことができない。厳格な研究に明け暮れる修道士であっても、本の読み過ぎが幻影を生み、思想の行き過ぎを起こしてしまう。その事例はこの小説の登場人物に多数いた。それに、ウィリアムの方法は「事件」を読み解くひとつの説明、解釈を作り上げたが、それは「犯人」の指摘で瓦解する。「連続」事件であり、事件全体を実行する意思があるというのがウィリアムの見方。しかし、ウィリアムの見つけた「犯人」のいうことには、そのような意志や計画はどこにもない。「事件」の中心はない。「悪魔」はそこにはいない。ウィリアムの推理や論理はただ偶然に、事件の起きた理由を知っているものを言い当てただけ。にもかかわらずウィリアムの推理や論理は仮構された「犯人」を断罪することを必然とする。そこに、ウィリアムの嫌悪した異端審問官の裁判との差異はどこにあるのか。ウィリアムの天使と悪魔の情熱は区別できないというのは、自らに跳ね返り、天使と悪魔の区別すらできないというところまで落とされてしまう。
 では、われわれはそのような不可知の世界で探求をあきらめるべきか、というのが次の問いになる。ウィリアム自身は結論を出せない。数年後に蔓延したコレラに罹患して死亡したから。では弟子のアドソはどうか。数十年後に廃墟になった修道院を訪れ、文書館跡から紙片、断片を二袋も集め、その解読に残りの人生を捧げる。そして「片々たる語句と、引用文と、不完全な構文という、切断された四肢の書物からなる一つの文書館を」構想するに至る。完全性はあきらめても、幻影の向うにある完全性を夢想するわけだな。それはあきらめなのか、希望であるのか。はてさて。
(ウィリアムの問いには現実や生活の格差や政治の不正、犯罪に対してどのように対処するかという正義や倫理の問題もある。この感想では省略。)
 このように記号と14世紀ヨーロッパという大状況のもとに、修道院の事件を描き、さらにはアドソの恋までもはめ込むという大物語を読み通した。ネタの仕込みはものすごく、一読では問題を枚挙することすらできないだろう。再読が必要な書物ではあるのだが、さて14世紀の修道士がしたような思考を当時の文体で書いた書物は字面を追いかけるのも難しい。その困難を克服した果てには豊穣な地の世界が開けているのでぜひとも挑戦してみられんこと。そろそろ文庫にしてくれませんかね。
 とはいえ、翻訳に問題がないわけではない。修道士はラテン語で会話するというからだろうが、人物の会話がみな同じ調子というのはいかがなものか。出身に合わせるように、複数の会話体を使ってもよいのでは。原文がラテン語であるところや、複数の言語をまぜこぜにしゃべるサルヴァトーレの会話がカナ書きというのも。いずれも読みにくい。前者は漢文読み下しもどきにしてゴシックで表示するとか、後者は筒井康隆ハナモゲラ語みたいなハチャメチャ文体にするとか、いろいろなやり方を試してほしいものだ(複数の文体の駆使は、石川淳「狂風記」が参考になる)。初訳から四半世紀たったので改訳を希望します。

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2016/04/09 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 下」(東京創元社)-3 に続く。