odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

武田泰淳「風媒花」(新潮文庫)

 なんとも風変わりな「小説」。なにしろ途中で作者自身が「あまりに忠実に記録されたがために、かえって無数の人物の無責任な羅列のごとき観を呈する」というくらいなのだ。あまりにたくさんの登場人物、あまりにたくさんの事件。およそ要約不可能なうえに、だれを「主人公」としているのかわからず、いったいどれが本筋で主要なできごとであるのかさっぱりわからない。
 とりあえずは1952年(発表年)の直前のこの国を舞台にして、おそらく東京の周辺を思われる場所で、複数の「事件」が進行しているらしい。戦前に中国で高等教育に携わりパージされて認知症で死亡した高名な漢学者を父に持つ中国学者が酔って崖から転落(どうも誰かに突き落とされたらしい)して危篤にあるというのと、PD工場という何かの製造工場で労働組合員向けの講演会を行う日に青酸カリが混入したお茶で数名が危篤になったか死亡したかの事件があり、その工場の労働者と横浜の華僑につてのある混血(ママ)の男が漢学者の家から隠匿されていた拳銃を持ち出そうとしてカリエスで半身に不自由のあるミドルティーンの孫娘が発砲したらしく、またスト中の百貨店に侵入して万引きをしたところを捕まった女が老人の勧めで売春組織に身を入れたら敵の父に縁故のある男に変われそうになったり、警官の職質にあっている最中(たしかデモかストがあったか)に隠し持っていた拳銃を発砲して逮捕され所属している中国文化研究会に公案の調べが入ったとか。大きな事件はこんなところか。奇妙なのは、この関係者の交友関係をたどるうちに、どこかの事件の関係者は別の事件の家系者と知り合いである、狭い人間関係の円弧にあつまってしまう。そのうえ、ここに掲げたような事件はどれも解決しないし、登場人物たちもさまざまに想念をめぐらすがどこかに到達して安堵するということもない。およそ近代小説の大団円はなく、突然始まって、突然終了する。読者には困惑が残るばかり。
 なるほど、小説では特定の人物にフォーカスが当たって、彼/彼女らが関係する事件と問題が重要であるとされる。特権的な人物だけが特権的な事件に遭遇して特別な世界の特別重要な問題に深く関与するというわけだ。事象を極端に拡大することで、それが読者の人生にもかかわりのある問題であることをわからせるための手法にほかならない。しかし、人生の実相を振り返れば、おおむね<この私>には小説のような特別な、深刻な事件は起こらないものだし、あっても別の誰かがどこか遠くで起きている。あるいは複数の事件が同時進行していて、軽重を付けることもできず場当たり的な対応をしている。後悔と反省、希望と喜びを同時に感じている。そういう<この私>の人生は、この「小説」のような中心のないもの・ことに近いのだろう。
 とりあえず、小説の背景には、敗戦とそのあとの貧困、社会の格差拡大と不正、講和直前の占領された日本、朝鮮戦争、1949年の中華人民共和国の建国、共産主義運動・労働運動の隆盛がある(帝銀事件など社会事件や風俗なども)。主要人物の大半は市井の中国文化研究会に所属し、高齢の人物は漢学者であるとされ、彼らは共産中国と革命になんらかの観念や希望や羨望を持っているらしいということが知れる。あの時代の風俗や教養を知ることができ、インテリの腰の軽さとゴシップ好きがうかがえ、決定的なことから逃げるという弱点ばかりの「日本人」を戯画化しているともいえる(その点で、この小説は椎名麟三「永遠なる序章」の続きとみてもよさそうだ)。
 さまざまな「中国」に取りつかれた男たちがいる。漢学者であるとか、翻訳家であるとか、親が中国人であるとか、戦争中情報担当士官であったとか、毛沢東信奉者であるとか、理由と関わり合いはそれぞれ。彼らは個別な思惑をもって、中国にかかわり、利用しようと画策する。それはまったく実績をもたらさないのであり、誰かに影響を与えることもない。およそ成果を生み出さないのであり、風がふいて飛び散っても決して受粉しない花粉であるのだろう。
 むしろ、彼らの周辺にいる女性の方が重い存在にみえた。無学・無知とあざけられながらも男を手玉にとる蜜江。漢学者の娘でマルクス主義に傾倒するインテリ女子大生の細谷桃代。カリエスと栄養不良で身体が不自由で想像力をはばたかせる鎌原露子(彼女は「カラマーゾフの兄弟」のリーザによく似ている)。彼女らの存在のほうにこそ、安堵や希望があるのではないか。そこはのちの「貴族の階段」でもそう(前にあげた椎名麟三「永遠なる序章」でもそう)。