odd_hatchの読書ノート

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ダシール・ハメット「影なき男」(ハヤカワポケットミステリ)

 原題「The Thin Man」は直訳すると「やせっぽち」。でもここでは「影なき男」とされている。すなわち原書が1934年に出版されたあと、ハリウッドで映画化された。ウィリアム・ポールとマーナ・ロイの主演した映画(どんな俳優なんだろう)がおおあたり。数本のシリーズになった。そのときの封切り時のタイトルが「影なき男」だったらしい。おりからハリウッドで「犯罪映画」がはやった時期だったからなあ。あとがきによると、この映画のヒットでハメットは「財を成して、小説を書かなくなった」とのこと。これを残念とみるか、それともハメットとリリアン・ヘルマンにとってはよかったとみるか(ヘルマン「未完の女」によると、ハメットは牧場を購入しているが、このときに得た収入を投資したのだろう)。

 さて、主人公は名無しのオプではなく、ニック・チャールズというごく普通の名前。もとは探偵社に勤めていたが、結婚した相手が製材工場と軽便鉄道会社の持ち主で、社長に収まり、探偵は廃業していた。さて、彼らの知り合いで偏屈な発明家が失踪する。この男に妻はいたが離婚していた。この妻、ミミは典型的な「運命の女」。はたから見ると自堕落でうそつきで信用ならないのだが、なにしろ彼女は現在にだけ生きていてその瞬間ごとに誠実なのだ。ただその記憶や情熱の一貫性、持続性がない。とにかくいい男がいれば、自分はふたりのティーンエイジャーの子持ちでいながら、言い寄らずにはいられない。なので、息子と娘からは疎ましく思われているが、成人のとこから見ると、とても魅力的でセクシャルなんだ。だから、彼女のとりこになってしまう。
 で事件は、失踪した発明家が財産管理を委託していた弁護士事務所の秘書が殺されるところから始まる。ミミにすがりつかれて、ニックは気乗りのしない探偵にのりだす。すると、事件の関係者と目されるギャングに襲われるし、ミニとその娘ドロシーの両方に言い寄られるし、それを見るノラの追及をのらりくらりとかわすという、どうにも危ういところを歩かなければならない。ようやく容疑者らしい男として、発明家の身辺を洗っていた男が見つかるが、アル中でどうにもならない。とにかく覚まさなければということで、手配をしているうちに逃げ出し、のちに死体でみつかる。さらには発明家の別荘の地下からは白骨死体がみつかり、身元不明。失踪した発明家(身長6フィートで体重100ポンド。だから「The Thin Man」)から妻のもとに手紙で自分の消息と次の行動の指示が告げられる。彼はどこにいるのか。
 ニックはどうしているかというと、家でバーで出先で酒を飲み、みんなと会話をしているだけ。この生活は上級階級のものだな。当時、失業者が数百万人いるとき、彼の生活は羨望をもって見られるもの。それにミミの家族も、弁護士も上級階級、というか金に不自由しない連中であって、どうしてハメットはこういう人たちを主人公にしたのかしら。たしかに発明家ワイナントとミミの一家には過去の事件が重苦しくのしかかり、親と子供の不和というか断絶は深いものがあるのだけど、その問題は先送りにされたようで、ドロシーとギルバートの娘と息子が親にもつ不信と憎悪は克服されたようには思えない。
(あとでハメットの資料を見たら、「影なき男」は婦人雑誌に連載されたとのこと。)
 という具合に、1930年代の犯罪映画の雰囲気を楽しむくらいが面白いところ。まあ、よほどの好事家でなければ読まなくていい。

 文体や探偵のキャラクターなどは別の作家が早いといわれているのだが、1940年代からずっとハードボイルド小説の創始者ダシール・ハメットということになっている。その評価は自分も同意。
 創始者だけあって、長編は5つしか書かなかったが、似たような話はひとつとしてない。そのうえ、それぞれがハードボイルド小説のサブジャンルの典型を作っている。ポオが教義には3編(評者によっては5編)の探偵小説しか書かなかったのに、あらかたのサブジャンルと重要なトリックを作り上げたのと同じ。それだけでなく、作者の社会や人と見る視線の持ち方や認識の深みも優れている。こちらも後継者が容易には追い越せない高みに上っている。そして波乱万丈の前半生に、社会や国家に翻弄された後半生と、人物への興味も尽きない。今回の再読、再再読によって、ようやくハメットのすごさとか重要性を認識できた。彼の作品は今でも読まれるべき(2014年でほとんど品切れ)。とりわけ「血の収穫」「マルタの鷹」「ガラスの鍵」の3つを読むべし。