odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

高橋源一郎×SEALDs「民主主義ってなんだ?」(河出書房新社) 「民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも、『ありがとう』ということのできるシステム」

 SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)の活動は2015年12月末現在で進行中(2016年参院選終了後解散を予定)。前史から含めると2011年ころから活動を開始。その歴史をまとめるとのちにずれが出てくるだろうから、ここでは省略。個人的には前身のSASPLのころからツイッターアカウントを追いかけていたし、2015年夏の国会正門前の抗議活動はネットの中継を欠かさず見ていて、ときにツイッターで実況もしたくらい。なので、距離を置いてみることができない。それに、彼らの発することばに鼓舞されてもいるのであって、冷静であるのも難しい。そういうバイアスがあることを示したうえで、ここに書かれたことを見てみる。
 SEALDsの中心メンバーのひとりが作家・高橋源一郎氏のゼミ生であり、最初のデモの相談をしに行った。高橋氏は1969年の全共闘集会でアジ演説をして、のちに逮捕された経験を持っている。SEALDsの非暴力はそこらへんにも根があるし、個人の言葉で語るのが徹底されているのもこのあたりに発するのだろう。作家とSEALDsの中心メンバーによる対談は、2015/8/13と8/14に行われた。
 第1部は中心メンバーによるSEALDsの歴史の振り返り。高校生や大学生といっても、今世紀の若者は多様なあり方になるのだなあ。自分が同じ年代だったときには、みな同じような経歴を持っている連中ばかりだったけど、この世代になるとけっこうずっこけと跳ね返りと無鉄砲の・・・で、青春しているなあ。似たような経歴やきもちの持ち主は1980年代にもいたけど、社会運動にはいかなくて、ドロップアウトして自営業にいったなあ、と古きを思い出す。まあ、それだけ生活や見通しを厳しく感じているのだ。なにしろ大学の授業料がおれたちの時代の3〜5倍だ。それでいて親世代の収入は変わらないか減っているとなると、「モラトリアム」などとのんきなことを言っていられない。低成長で収入減であるとなると、政治で資産の再分配を公正に行うことを要求せざるを得ない。
 第2部は、「民主主義ってなんだ?」を考えることと、SEALDsの運動のスタイルについて。後者については論評しない。彼らは「俺たちに期待すんな、言いたいことがあれば自分でやれ」というスタンスであるので。社会運動のやり方批判で絡む連中には自分も辟易した経験がある。だからSEALDsのスタンスを自分は強く支持する。だから語らない。
 前者については高橋源一郎「ぼくらの民主主義なんだぜ」(朝日新書)の続きとして読んだ。新書では、現実のできごとから民主主義を見つけようとする応用編とすれば、こちらは民主主義の原理を見出そうという議論になっている。大学の講師と大学生の討論は、雰囲気の良いゼミの感じ。それはたぶん、アテネや南太平洋諸島やネイティブアメリカンのやっていた直接民主主義に似ていると思う。
 さて、自分が注目する「民主主義とは?」であるが、どうやらその問いを発し続けるのが民主主義であるらしい。すなわち完成形はないし、使い尽くすことはできないし(使い尽くしたことはないし)、みつけていかないとものにならないし(わかっていない奴にわからせようとするのはあかんし)、扇動者が生まれると独裁制になってしまいやすいし、法やことばで規制をかけておかないとおかしくなりやすいし・・・。歴代の思想家(ソクラテスプラトン、ルソーなど)からは危険思想と思われていた。そんなにヤバいのが民主主義。
 民主主義といっても、原理と制度は別であるところをしっかりと認識しておかないといけない。民主主義といっても過去と現在でけいたいはさまざま。全員参加の直接民主主義から選挙などを使った代議制民主主義まで。いまは代議制が多いが、それが民主主義の完成形ではない。アテネほかの歴史の比較的うまくいった民主主義は直接民主主義なので、むしろ民衆、市民、国民が要求する民主主義はこちらの方を重要視する。原理と制度は別というのを区別しないと、「多数決優先」「選挙で選ばれた者が議会で決議したから国民は従わないと」に対抗できなくなる(この主張はそのまま独裁制に至るので危険なのだ)。
 では原理であるが、そういっても難しい。「人間という存在が同じレベルの生き物としてお互いにつきあうということ(P179)」「弱い人間も入れて全部平等で同じというふうにしていく世界の方が、運用としてはむずかしいけれども、結果としてははるかに強いものになる(P180)」から、みんなが民主主義に参加して語り合う(面白いのは古代ギリシャの民主主義では「愚かなことを主張するのは禁止」というルールがあったこと)。言い合うことを繰り返して、時間をかけていく。誰かが決めたことが上から降ってくるのを待っているのではなくて、その前に語りしゃべり主張すること。そうすれば「民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも、『ありがとう』ということのできるシステム(「ぼくらの民主主義なんだぜ」(朝日新書)P196)」に近づくことができる。その先で、「欠陥は多いけれど、社会的動物としての人間が社会をつくるときの根幹に触れる(P188)」ことができる。
 この民主主義は小さなグループや集団では可能になるが(最後の引用は台湾のひまわり革命の学生たちで起きたことだ)、大きな社会や組織になると難しい。そのうえ、ぼくらの周りの社会や組織では民主主義が使われないことが多い(企業とか自治体とか檀家とか)。ぼくらは民主主義をもう一度使いこなし、慣れていくことをしないといけないようだ。やっかいなことだが、そこにだけ希望がある。だからこの本は希望の書。


 SEALDsはこのあと「民主主義ってこれだ!」大月書店を2015年10月に出版した。同年9月19日に参議院で安保法案が可決されてからのこと。ここには同じ作家と「なんだ?」の対談に参加した中心メンバーによる2015/9/29の対談が収録されている。
 自分も見たり読んだりして知っていることだが、1960年、1970年の安保では法案の可決によって反対運動をしていた人には敗北と挫折の感情が強かった(個人的には1983年の反核運動もそう)。でも、2015年安保運動ではそのような感情を持っている人はきわめて少ない。SNSでもまずみかけないし、そういうつぶやきには「終わったのなら始めようぜ」とリプライがつく。反対運動があったことで、可決した法安の実効性を損なわせたり、実行を躊躇させることができるし、ないにより「民主主義ってなんだ?」の問いかけはまだまだ続いていて、使いこなそうとする人がたくさんいる。そういう点で、対談の指摘のように民主主義は常に更新されている運動であるのだろう(いっぽう運動体とか組織は期間限定にしてリフレッシュするのがよい)。この年の安保運動の面白いのは、個人的なモチーフで参加して、個人の言葉で語り、批判の機能が運動する人のことばに備わっているところ。それが1960や1970の組織間/内の闘争で陰鬱なところと決定的にことなっている。組織に関係なく、個人でやればいいじゃん。その風通しのよさ(逆に参加することの責任にはセンシティブになるのだ)につながる。なにより当事者になるとおもしろいのだ。というわけで、この本も希望の書。
(写真がきれいで、かつ2015年の運動の記録になっているので、所有しているほうがよい。)