odd_hatchの読書ノート

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今道友信「エコエティカ」(講談社学術文庫)

 「エコエティカ」という学問分野をつくった著者の啓蒙書。講演五つを並べたので、話題がいったりきたりでわかりにくい。そこで、以下は章ごとのサマリーではなく、自分の自由なまとめ。

 エコは生態学、生態圏から借りてきた言葉であるが、自然と同義ではない。人類の歴史をみたときに、人間は自然を疎外して外部にした。そのとき自然は侵襲的・破壊的であった。アニミズムの時代の認識では人間は自然より弱いもので、神は人の姿をとらない(人間の顔は神や自然の前では恥ずかしいものだったのだ)。それが転倒して、人間が自然を支配・征服・改変できると思うようになったのは、人間が機械を自然の間に置くことによって。歴史的には古代ギリシャのころ(ここらへんはハイデガーのテクネーの議論に似ている)。そこにおいて、人間と自然のほかに技術による環境が生まれた。あるいは人間と自然の間に技術が置かれるようになる。この技術関連の環境が拡大発展したことで、人間の倫理は変化を余儀なくされた。とりわけこの200年ほどの変化や影響は甚大であるとみなす。
 技術関連による倫理の変化は以下のようにまとめられる。(1)徳目よりも技能が尊重、優先される。(2)人間が部品化し人間が機能で評価される。1と2で内面や人格が消去されるようになる。(3)人間の部品化は信号的な反応を要求し、決断や判断をする訓練と礼儀をなくす。(4)部品化は動物的反応を要求する。(5)倫理が物理的調整になる。このような事態は、技術が人間の力を省く省力化と時間の短縮をもたらすからであり、それは平等化や平準化を達成したが、一方で徳を失わせ、努力や根気を獲得する訓練の機会をなくした。
 そのような変化に応じて倫理学は対応するべきであったが、どうもアリストテレス以後大きな変化がないようだ。その理由のひとつが倫理を対人に限定することにあるようだし、自然との関係を支配-被支配でみるというところにありそう。そこで人類の生息圏の規模で考える倫理を提案したい。ここでは加藤尚武「環境倫理学のすすめ」(丸善ライブラリ)みたいに動物、植物、環境に権利を認めるところまではまだ検討していないけど。エコエティカでは今までの倫理と以下の点で異なる。(1)人間と自然という二項対立ではなく、技術関連という環境を追加する。その理由は上の節のとおり。(2)今までは目的に応じて限られた手段を選択するという仕方で考えてきたが、現在は手段が莫大になり(たとえば資本や資源など)、手段から目的を選択するようになった(資本をどの分野に投下するのが、人間の福利厚生に寄与できるかという設定になった)。(3)技術関連は遠隔操作を可能にして近く範囲を広げた。今までの対面・対人関係とは異なる人間間の関係が無視できないほど大きくなった(ここはネットを想起するとわかりやすい。ネットで他者・他人を直接にも間接でも認識できないので、差別・人権侵害が容易に行えるようになり、それを規制する倫理はまだ生まれていない)。同じく、知覚範囲が行動範囲よりも広がったが、行動範囲の外にある問題にどのように関与・参画するかの倫理もない(テレビで見る自然災害に対して自分はなにができるのかという問いかけを想起するのがわかりやすい)。(4)今までの倫理の主体は個人であったが、技術関連では組織や集団も倫理主体でなければならない(PL法の製造者責任がわかりやすい例)。(5)今までは対人倫理を考慮してきたが、今後は対物倫理を考慮しないといけない。このときの「物」は自然・技術・文化を指す。
 1990年初出なので、ここに書かれたアイデアのいくつかは法令などに反映されるようになった。いくつかの自然災害や環境保護活動などを通じて、読者の常識になってきているものもあるだろう。とはいえ、それが倫理の醸成によるのか技術関連の合理化・省力化などで人間が機械的・動物的反応をするようになったためかは判断できない。
 倫理は人間がよりよく生きる、品位(ディーセンシー)を持って生きることを要求する(参考: リリアン・ヘルマン「眠れない時代」(サンリオSF文庫) )。そのときに、我々は、倫理の徳目を再確認・再検討することになるだろう。例えば、以下の徳目の見直しが必要。勇気、忠、謙遜、責任(気分転換)。新たに追加される徳目には、異邦人(外国人、マイノリティ)愛、定刻性、国際性など。その訓練のために、語学と機器の習得が求められる(語学は異邦人とのコミュニケーションや考えの理解のためだし、機器の習得は技術関連の環境に適応するため。レイシズムやショーヴィズム、あるいはラッダイト運動・自然回帰などはとらないことに注意)。
 個別の指摘でおもしろかったのは、悪とは他人の不在の欲望であるとか、教養が個人の自己展開で他者や環境への働きかけの契機に欠くとみなされるとか、道徳が社会的統制への他律的服従全体主義への同一化とみなされるとか。なるほど初頭教育の道徳が教師や親その他への服従を教えがちになるという批判はそこにあるのか。大正教養主義が政治主義に対する反動で生まれたのだが、教養のそのような見方はまだ継続しているのだなという発見になった。面倒でも、教養や道徳は倫理学から見ることが必須だね。ここは勉強になった。
 でも最後の章で、自然は相待的とか、超自然的な目からみたときのみ罪や善が評価できるとか、霊性を重視するとかの考えにはついていけない。そこに至るまでの記述にとくに違和はないのだが、倫理の根拠を自然や霊性に持たせるというのはどうかなあ。納得できる話ではなかった。
 この本の記述は学問的にすぎて、現在の問題をどのように考えるか、どのように判断するかの演習が少ない。なので、入門はできてもそのあとの自習には使えないのだよね。具体に落とした事例集がほしいけど、そのような本はあるのかしら。著者と立場を一緒にしているかは知らないが、サンデル教授の本あたりがそうなのかな。