odd_hatchの読書ノート

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江戸川乱歩「暗黒星」(講談社文庫)

 昭和14年に連載していた通俗長編2つが収録されている。

暗黒星 1939.1-12 ・・・ 麻布に大西洋館を構える伊志田家。ある夜8mmフィルムの上映中(当時は国産品はなくて、フィルムともども輸入していたのではなかったかな。相当な資産家でインテリでスノッブの趣味)、スクリーンで美青年と美少女のアップが燃え上がる事故が起きた。それから異常事態が伊志田家を襲う。異母姉弟の身辺を黒コウモリの衣装を着けた怪人が付けねらい、とりわけ一郎青年が餌食になる。一郎は明智探偵に出動を要請。数日後、美しい異母と妹が右目と胸をえぐられて殺され、警戒していた明智も重傷を負う。嫌疑は怪しい動きの姉・綾子にかかり、一郎青年が地下室で昏倒しているところを行方不明になる。数日後、庭で怪しい見知らぬ青年の刺殺体が見つかる。綾子は行方不明。さらにたって、一郎が怪人に襲われたとき、今度は当主・鉄造も行方不明に。あらら、サマリーを書くだけで犯人は丸わかりではないか。昔の短編「何者」を思い出せば、すぐにわかるわな。
 いくつか突っ込みというか思いついたことを書いておくと、
・当時の麻布は、伊志田家のような新興成金が大邸宅をつくるような都心(銀座や丸の内)から離れた辺鄙な場所。
・失踪した綾子を追って品川(ここも辺鄙な場所)の日本宿を捜索する。そこで行方不明になるが、刑事たちは「蕎麦屋の二階で着替えたのだろう」と推測する。蕎麦屋の二階? つまり、当時の蕎麦屋の二階はその辺の娼婦をつれて、1時間ほどしけこむ場所だった。だから女一人で二階に上がるのはめずらしくないし、明かりがくらいから人知れず着替えもできる。そういう風俗は、戦前にはあった。
明智は美青年・一郎に魅かれる。長い睫、しみのない肌、青白い顔。この小説で小林少年をあまり使わなかったのは、一郎に恋していたからだろう。
・「暗黒星」は太陽の周辺にある矮星の意。自身では発光しないが、光り輝く恒星のそばにあることで影響力を行使するという暗喩とのこと。短編「何者」のテーマに重なる。1939年で、矮星の概念がすでにあって、乱歩のようなインテリが知っていたというのが驚きなのだが、ネットではこの概念がいつできたかはわからなかった。
・クライマックスばかりが続くのは、雑誌連載のせいだ。なるほど、そのようにセンセーショナルな出来事を頻出しないと、「館もの」は古臭いということなのだろう。


地獄の道化師 1939.1-12 ・・・ 池袋の踏切でオープンカーに乗っていた裸女の石膏像が落ちてしまった。中には女性の死体が入っている。持ち主は行方不明。被害者を知っているという女性が現れ、姉の野上みや子だという。彼女には白井清一といういいなずけがいるが、結婚を渋っていた。白井はみや子の妹あや子といっしょに明智に捜査を依頼する。なんとなれば彼らの周りを「地獄の道化師」を名乗る怪人がうろうろし、ときに脅迫を、ときに拉致監禁を行うのであった。ピアニストである白井はソプラノ歌手相沢麗子のリサイタル中に相沢がナイフで刺されそうになる事件もあり気が気でない。明智は早速、得意の変奏で白井家周辺を見張っていたが、そこにも道化師の姿が見え隠れ・・・。
 のちの捜査で追い詰められた犯人が逃げ込んだ先で、別に監禁していた女性に毒薬(おそらく塩酸、硫酸のたぐい)を顔にかけ、重傷を負わせるというなんともえぐいシーンが出てくる。そのあたりで、だいたい犯人が予測できるのではないかな。これも短編「何者」の変奏にあたる。
 当時池袋周辺は畑ばかりで歓楽街などないに等しかったが、練馬・足立からの野菜運搬などで道路は整備されていたらしい。事件の起きた踏切も大きいというから、開かずの踏切といわれた「池袋大踏切」なのだろう(1966年に池袋大橋ができて廃止され、今はない)。乱歩は1934年に池袋に転居して、生涯そこに住んでいた。自宅周辺を舞台にしていて微笑ましい。
 道化師すなわちピエロの姿をして都会をうろつきまわるというのは目立って仕方がないと思うのだが、そこはどうクリアしたのか。ちんどん屋の隆盛期にあたるから、東京全市でみれば数人の道化師はいたのかもしれない(と思う)。ピエロという道化が犯罪の首謀者になるというのが想像の目玉になる。仮装をした犯人が被害者の周辺をうろつきまわっておびえさせたり、犯罪予告したり、ときに姿を現して陽動するというのは乱歩の作に頻出。乱歩は当時鬱でひきこもり気味であって、人前に出るのが苦痛だったという。仮面をかぶってパーソナリティを変えるのが、そとにでる方法であるわけだ。あと、リアリズムの小説では犯罪は隠匿して露見を恐れるのであるが、ここでは積極的に露出する。劇場型の犯罪では大衆に露出することで、犯罪そのものとは別の成果を得ようとするのだが、被害者と捜索者にだけ自分の姿を露出するというのはどういう思惑や欲望からうまれるのだろうか。
 そういえば、パウル・レニという監督にヴィクトル・ユゴー原作の「笑う男(The Man Who Laughs)」というの映画があって(1928年)、口を切られて笑っているような表情になる男の登場する怪奇ものだった。主人公役の俳優が「カリガリ博士」の眠り男チェザーレで、「カサブランカ」のシュトレッサー大佐であったのを知って驚愕。またこの国の戦後には小田基義監督の東宝映画「透明人間」があって、主人公はピエロの恰好をしていたのも思い出す。
 笑う男 フル・ムービー
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 昭和14年で戦前の乱歩の通俗小説はこの後の「幽鬼の塔」で終わる。このころにはもう探偵小説やサスペンスは書けなくなっていたのだろう。息苦しかったのか、ライターズ・ブロックにかかっていたのか、「吸血鬼」「人間豹」あたりに比べると生彩に欠ける。「パノラマ島奇譚」みたいに想像力の展開もないし。自分も本筋より、細部から生まれた連想を転がすほうに熱中してしまった。好事家向け。