odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

東野圭吾「ナミヤ雑貨店の奇蹟」(角川文庫) 道徳の規範である「神」を持たないこの国では、告解や懺悔の仕組みはないので、「世間」を相談先にする。

 2012年、悪事を働いた若者3人組が、廃屋に逃げ込む。そこはかつて悩み相談を請け負っていた雑貨屋。廃業して無人の店内に、郵便口から手紙が投函される。その手紙は悩み相談だったが、どうも昔の時代のものらしい。なにしろインターネットもケータイも知らないというのだ。無視しようとリーダーが言うが、残り二人は相談の返事をどう書くかを相談した。そして武骨でストレートな返事を投函すると、即座に返事が返ってくる。心ならずも若い小悪党が見知らぬ他人の悩みにこたえることになった。
回答は牛乳箱に ・・・ オリンピックを目指している女性は不治の病に侵されている恋人とどちらをとるのか。相談者は1979年に生きていることがわかる。
夜更けにハーモニカを ・・・ 先代・浪谷(ナミヤ、入れ替えるとナヤミ)が相談所を開設し閉鎖することになったいきさつ。
シビックを朝まで ・・・ 田舎から上京し音楽をとるか家業を継ぐかで悩んでいる青年。若い読者には「シビック」は1979年当時によく売れたホンダの自動車の名前であると教えないといけないかな。
黙とうはビートルズで ・・・ 羽振りの良かった親が突然夜逃げをすることになった。ついていくのがよいか、家族を切るのがよいか。ここで丸光園という児童養護施設が現れる。若い読者には「ビートルズ」は(略)。
空の上から祈りを ・・・ 田舎のOLをするか水商売をするかを悩む女性。若者らは1980年代のバブルを予言し、彼女の行く先を指し示す。
 それまで他人に邪見にされていてしかも貧困のうちにあった現代(2012年初出)の若者が、他人の悩みに介入し、彼ら彼女らの成長や成功を見ることによって、みずからの殻を破り再生する物語。他者の問い(それも人生の選択に関する)に応えるうちに自分の資格を考え、「正義」と照らし合わせて回答を考え、その反応を見て再考し、しだいに自分の悪を自覚し、自己変容を果たしていく。天藤真大誘拐」(創元推理文庫)にもそういうテーマがあったなあ。なるほど、小説の主要な人物はそれぞれに顔を合わせたこともなく、会話もしたことがないにもかかわらず、ひとつの波動(バイブレーション:オカルトで使う方)でつながっていて、そのつながりが時空を超えたものであるというところに「感動」するのかな。このつながりが巧妙。時系列順に人物相関を書いてみると面白いと思う。
 ちょっとひねくったことをいくつか思い出した。
・悩みを持つのは誰しもであるけど、だれかにそれを打ち明け、相談し、回答をもらうかというのはさまざま。たいていは家族や知人、先生などに相談することなるが、身近な人々との葛藤がある場合は、相談相手がいない。となったとき、キリスト教カソリックは教会の神父に相談する。神父はその種の回答をする訓練をつんでいて秘密保持も万全。相談するものは神父を通じて神に語りかけることになる。さてそのような道徳の規範である「神」を持たないこの国では、相談先を「世間」にしてきた。明治に新聞がつくられると「人生相談」「身の上相談」という仕組みができる。匿名の相談に別人が匿名や本名で答える。身近な家族・知人・師弟関係ではない他人や顔を持たない世間が相談先になる。最近では、「生協のシライシさん(だったっけ)」のとんちの利いたユーモラスな悩み相談が受けたことがあったね。世間が善悪や正邪を判断できると考えるのが西洋と違うなあ。
・1979年のティーンエイジから25歳くらいまでの人たちは、悩みを徳や義に基づいて(というか徳や義に背かないように)解決しようとする。すると徳や義は関係者のどちらにもありうる。悩みの相談者はどちらをとるかという選択を迫られる時、徳や義に背かないようにすると選択できなくなる。そのために選択することが正義であるという保証を欲しがる。この選択をしたけど家族には(親族には、世間には……)背いていないという理由を必要としている。一方、2012年の若者は悩みを損得で考える。ゲーム理論クリティカルシンキングのように自分の現状を括弧にいれて、状況の中で最高の利益が上がるような決定を選ぶ。他人の感情とか思惑とかは、自分の利得で帳消しになる、というか選択する行為の「自由」(と責任)が最優先になる。1979年の若者は悩みを倫理的に考え、2012年の若者は経済学的に勘定するというわけだ。ここはこの35年で人々の生じた変化に対応するのではないかしら。もちろん1979年の若者も経済や利得を考えるし、2012年の若者も善悪や正邪に向き合うのだがね。この小説では悩みに向き合い、行為の選択の意味を考え、それによって自己変容することが重要であるといっているのだが。
参考エントリー
竹内靖雄「経済倫理学のすすめ」(中公新書)
・若者の悩みは、家族・知人・友人・職場などの共同体の中で起きるもの。家族と折り合いが悪いとか、友人の依頼にこたえられないとか。インサイダー内部の軋轢とかストレスとかに原因がある。なので、ボトルネックを見出し、解決方法を自分で選択することができた。それはめでたいのだが、ここにはマイノリティの悩みはない。「私はエスニック・マイノリティで、毎日いじめにあっています。どうすればよいでしょう。」「私は中学生の女子ですが、毎日男子に性的嫌がらせを受けています。どうすればよいか教えてください」というようなインサイダーでは解決できない悩みにはどうこたえるだろう。
・巧みな小説、とおもったのだが、いまひとつのめりこめなかったのは、自分がまさに1979年の若者に重なる年齢であること。なるほど、あの年のことはよく覚えているし、小説にでてくるのに似たような悩みは俺もその時代に抱えていたものだ(小説ほど深刻なものではなかったが)。でもよう、自分の息子(いないけど)ほどの年齢の若造に意見を聞かなきゃならんような身じゃねえぞ。
・というような反発が悩みの相談者にもあった。怒りや反発を口にする。しかし、小説の若者は怒りや反発の後に反省し、回答者の心情を忖度するようになる。そして回答の文章の裏側を読み取って、自分の行動の指針に変えてしまう。ここがすごいなあ、他者とコミュニケーションをとるのが上手な人はそういうことができるのだなあと感心した。自分は他人の感情を読むことができず、文章に書かれたことをそのまま受け取るので、この小説の悩み相談者のように自己変容することはできないからなあ。