目白に住んでいたサラリーマン一家が千川に引っ越す。引っ越し先は築数十年の元写真館で、この家には亡くなった店主の幽霊が出るといううわさがある。酔狂な父が面白がり、改装しないでそのまま使うことにしたのだ。写真館が営業を再会したと思い込んだ人が写真を持ち込んできたりする。高校生の英一はこころならずも探偵をするはめになり、素人の悲しさ、ひとりでは対処できず、友人や大人の手を借りて「事件」に挑んでいく。そのうえ、母・京子は7年前に風子という4歳の娘をなくしていて、影を落としていて、なまいきになった10歳の弟・ピカも家に出る幽霊を見たがっている。父は実家と仲が悪く、自分の興味のあることに熱中してしまう。となると、英一は家族のことも考えることになり、これもまた高校生には荷が重いのだった。
幽霊屋敷に引っ越してきたちぐはぐな一家。そこにおこる騒動をユーモラスに語る。自分は2004年のテレビドラマ「怪奇大家族」を思い出しましたよ。粗忽な父、うっかりものの母、未熟な高校生、しっかりした弟という構成、そのうえ重要な人物が不在というところなんかがとくに。一方で、コメディタッチのテレビドラマに対して、こちらはユーモアを持たせたリアリズム。高校生の会話や興味の持ち方なんかは、作者の近くにモデルがいたのかな。
全体は4つの章に分かれて、それぞれで独立した事件が起きる。
小暮写真館 ・・・ 信仰宗教に入れあげた家族のだんらん写真に幽霊が映っているかもしれなくて……。
世界の縁側 ・・・ 二組の家族の集合写真。片方は笑顔なのに、一方は泣き顔で。泣き顔の一家は不況で離散しているらしい。
カモメの名前 ・・・ 不登校児を集めたフリースクールに通う児童が持っている写真に、できのよくないカモメが映っていて。
鉄路の春 ・・・ ピカが風子に会いたい、小暮写真館の元店主の幽霊に会いたいと言い出す。物件を一家に紹介した不動産会社の女性事務員が行方不明になり、父と実家で不和がさらに厳しくなり……。
このような小事件の謎―捜査―解決がある4つの連作中編があって、そこに花菱一家や不動産会社の関係者の大人が困惑したり、英一の同級生や先輩後輩らとの間でいさかいやトラブルや恋愛があり、ピカの周囲の小学校のできごともあったり。主要登場人物は20人くらいか、それぞれが問題を抱えていて、英一や一家に関係したり、無関係なところで発展していたりと、読み取るべき物語はたくさんある。全体としては高校生の英一が高校入学から卒業までの3年間に、自立していくまで。進学校の頭の良い生徒たちなので犯罪そのものは起きないにしても、失敗や挫折などから少年が大人になるまでのピカレスクロマンになっている。この小説を包む社会や教育の制度は21世紀前半のリアル(初出は2010年)をほぼそのまま反映しているのでしょう。
そのような物語を50歳前後の著者が高校生に仮託して描くというのは、曽野綾子「太郎物語」といっしょ。あちらもそうだが、こちらでも高校生の男子生徒はよい子で、頭がよくて、コミュニケーションをとることが容易で、親や友人たちに心配をかけず、問題は自分の内部で発生するのではなく他人の問題に影響されるというふうで。こちらの生徒は他人を見下すエリート臭がなくて、他人への配慮が細やかなところは好印象。他者の優れているところを認めることができ、他者の痛みや悩みに想像力を働かせることができるのが、英一が太郎よりも秀でているところ。それは、小学生のピカでも同様。ただ、自分の経験や身近な人たちを見聞したあたりからすると、このような「ヨイコ」は母親からすると手のかからず放置できる子(二人とも自分と家族の悩みや痛みを自力で解決できるのだ)で、理想化されているなあ、という印象を持つ。
理想化された「ヨイコ」たちという印象はラストシーン後にもあって、ここでは様々な人たちが数年抱えていた問題を解決したり、解決に至る道筋が示されている。それはよいことではあるにしろ、自分には爽快な感情やカタルシスを得るまでには至らない。若い人たちの個人的な問題が解決しても、彼らの行く先の社会に閉塞感があるからだろう。千川地区の高齢化は止めようがないし、商店街はシャッターが下りたまま。大学に進学した英一たちは別の場所で職について町から出ていくだろうし。時に帰ってみても、荒廃した故郷に愕然とするだろうし(それも都心から1時間もかからない住宅街で!)。帯には「感動のこの結末を」とうたっているが、そうは思えないのだよなあ。北杜夫「楡家の人々」だと、ラストシーンの家族はみんな傷や悩みを抱えて閉塞感が漂っているのに、読後感がさわやかなのは昭和21年から後の社会が紆余曲折はあっても復興と発展があったことを知っているから。それと比べると、21世紀はなんとも「感動」とは縁の遠い社会になってしまったなあ。