odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

ハーマン・メルヴィル「白鯨 上」(新潮文庫)-2

ハーマン・メルヴィル「白鯨 上」(新潮文庫)-1 の続き

 そうした引用先でも最も重要なのは「ヨナ書」。旧約聖書の中では最も短いもの(だと思う)なので、リンク先などで読むことを推奨。
口語訳聖書 - ヨナ書
 冒頭付近でマップル神父がヨナ書に基づく説教をしている。あまりよくわからないが、ざっとまとめると、ヨナは選ばれて神の使命を果たすことになったが、逃れようとして船に乗った(説教では場所を考証している)。しかし神からは逃れることができず、乗った船が嵐にあい、ヨナにその原因があることを知る。そこでヨナは海に投げられたのだが、大魚に飲み込まれ、腹の中で神と問答する。そこで回心が起きた。
 さて、「白鯨」はヨナ書が裏返しになった思えばよい。エイハブにはまず白鯨による悲惨が押し付けられる。船の破壊や片足の負傷だ。そこでエイハブは白鯨のその行為の意味を問う。しかし、白鯨は決してエイハブの問いに答えない。どころか、エイハブから遠く離れ、近づくと彼を攻撃する。こういう答えない神、怒りの神という存在。抜群の知性をもっているはずで(だから捕鯨船の裏をかく攻撃をしかけられる)、しかし決して人間とコミュニケートしない。なにかのメッセージを送っているようであるが、解読できない。
・19世紀では、そのような存在は「神」と呼ぶしかなかったが、20世紀には宇宙の知的生命体との交流やコミュニケート不可能として書かれるようになった。科学や民族国家は、世界を想像する神、世界と統括する神の居場所をなくすようになったが、人間の知性を越えた認識可能な超越的な存在としての神は残っている。超越神をそのまま書かずに、知的生命体として了解して、メルヴィルの主題を描こうとしているのではないか、と妄想。クラーク/キューブリック2001年宇宙の旅」やハインライン「異星の客」とか、とくにスタニスワフ・レムの長編。
・エイハブの狂気(なるほど認識不可能な存在と直接コミュニケートしようというのは狂気に見える)がどこから来たのか、これもまた読者にはよくわからない。エイハブの言葉は、自分にはよくわからない。ただその狂気が感染して船を覆っていくのはわかる。彼が四文儀、羅針、測程標など科学や技術を破壊することで、船が共同体との縁とか絆とかを切っていくごとに、船に狂気が蔓延する。まるで、船がエイハブという大魚の腹に飲まれたヨナになったみたいに。その象徴が黒人少年のピップ。捕鯨船のボートに乗せられて海に放りだされた経験が少年の気を狂わせていく。
ジョン・ヒューストン監督レイ・ブラッドベリ脚本の映画「白鯨」では省略されたが、拝火教徒フェダラーの存在が謎。通常船主が面接して採用するのに、この男だけはエイハブが勝手に乗り込ませた。それも「影」のように他の水夫に見えないように。そのうえ出港からしばらくは姿を見せない。エイハブがボートを出した時に初めて姿を現す。その後は船の中で自由にしているようだが、捕鯨後の油取りの作業にはかかわらないようだし、水夫たちと会話を交わさない。存在が不気味。それでいて、フェダラーは水夫に強い影響力をもっているし、エイハブに対等に話のできるほとんど唯一の人間。エイハブの死を幻視し、エイハブに先立って白鯨に持っていかれ、鯨索で白鯨に絡められる(映画ではエイハブがそうなった)。この男はいったい何者? 拝火教徒の象徴するものはなに?)
・唯一正気を持とうとしているのが、一等航海士スターバック。この常識人はエイハブの狂気をいさめようとして失敗するが、正気は保つ。なぜ保てたかというと、彼だけが妻子持ちだということくらいしか思いつかない。他の乗組員はエイハブ(妻子持ちだが前の航海中に亡くしている)やイシュマエル、クィークェグ、鍛冶屋のように、みな独身だ。捕鯨船は一度航海に出ると数年間洋上にあることも珍しくないという。捕鯨船乗りは通常の家族を持つことができない。そのような独身男性の集団だからこそ、狂気は感染し蔓延する。スターバックは帰還して妻子と再会するという希望や期待を持っている。陸地の共同体や家族とつながりを残しているわけだ。だから正気であるといえる(それゆえに、スターバックは渋面で、気難しく、沈鬱になり、経験と指導においてのみ尊敬される。彼を「裏返した」スタブが、陽気や笑いなどの存在によって尊敬を勝ち取るのと好対照)。
・語り手イシュマエルもまあ正気の部類であるのかもしれない。でもこの饒舌の徒は、博学とはうらはらに中身は空っぽみたい。観察者、収集家、記録家で在るというのは、思想や思考と無縁でいられるから。実際、前半であれほど自分自身のことを書いていたイシュマエルも、鯨学と捕鯨船のことを書ききったあと(109章のあとから)、自分自身のことを一切書かなくなるのだ。エイハブの狂気に取りつかれて、自分とエイハブを同一視するようになったのかも。自分のことは書かない代わりに、エイハブの言葉をよく記憶し、記録するようになる。エイハブの呪縛から抜けでたエピローグになってようやく自分のことを語るようになる。

  


 2016/10/3 ハーマン・メルヴィル「白鯨 上」(新潮文庫)-3 1850年 に続く。