odd_hatchの読書ノート

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ウラジミール・ナボコフ「ロリータ」(新潮文庫)-2

2016/10/07 ウラジミール・ナボコフ「ロリータ」(新潮文庫)-1 の続き。

 ハンバートの主張によると、女は子供と成人の間に、<少女>と呼ぶべき特別な一瞬があるという。それをニンフェットと呼ぶ。年齢は9歳から14歳の間。すべての女がニンフェットになるわけではなく、ある特別な選ばれた存在のごく少数だけがそのような存在でありうる。ハンバートは「蠱惑的で狡猾」な子という。一方、そのような<少女>=ニンフェットを認識し、愛撫することのできる男もごく限られている。たとえば、ダンテであって、「新生」に書かれたヴェネツィアでのベアトリーチェとの運命的な出会いの時、ともに9歳であったのだった。ハンバートも14歳でアナベル・リーという同年齢の<少女>との出会いを果たしている。
 現実社会においてこの嗜好がどのように扱われるかはここでは扱わない。とりあえずこの小説では、ハンバートのように<少女>=ニンフェットを通じて世界を見ることによって、読者の世界の見方も活性化し、見過ごしているさまざまなことが生き生きとしているのをみるだろう。たとえば、テニスをするロリータの姿。多くのスポーツ小説が技術にこだわり習熟に至るまでの「特訓」に意味をみいだそうとしたり、戦術や戦略を駆使することで勝敗に集中したり、チームにかかわる者たちの葛藤と克服と一体化にいたるプロセスとみたり(スポーツをケーススタディにしたプロジェクトマネジメントだな)、過去の記録と羅列したりと、スポーツを描こうとしながら、スポーツから遠くはなれたものがたいてい。でもここでは、ハンバートはそんなことを一切無視する。ハンバートは、ボールを追いかけラケットで打ち返す身体そのものを注視する。身体の運動、バランス、スピード、優美な肉体の動き、汗と体臭、光と影。無=意味な身体行為そのものが美であり、陶酔の対象。ハンバートが眺めることによって、読者はテニスという身体運動の美しさを見出す。ただ、ハンバートの欲望はロリータを見ることに限定されていて、ニンフェットの「特別な瞬間」を切り取り保存する写真や動画を撮影する興味はなかった。
 あるいは、ハンバートとロリータの疑似家族(?)あるいは愛人関係(?)。ホテルやモーテルの外、他人の視線を浴びる場所では父と娘という演技をしていて、ドアを閉めると同時に父と娘の関係は、奴隷と崇拝対象の関係に代わる。それは二人の他の他者を疎外することによって実現するのであるが、官能と陶酔の中にいるハンバートの観察力は失われる。フォーカスする感度と被写界深度がおかしくなって、世界の見方や後世の仕方が「世間」とか「常識」からずれていくのだね。そして閉塞していき、互いの関係にだけ敏感になったハンバートは、嫉妬と幻滅の中で狂っていく。「トリスタンとイゾルデ」の夜が二人の眼をくらまし、死に向かって誘われていくように(ああ、イゾルデも成人した男を惑わすニンフェットに他ならない)、ハンバートも破滅に向かう。
 彼らの互い見はこのような「官能の王国」を作る。そこに住む二人は特権的な存在。二人以外の人間、法律上の妻でさえも、意味を持たない。そこで他者への侮蔑、嫌悪、無視、恐怖、憎悪などの負の感情が生まれる。社会や共同体を嫌悪することで、人との関係もおかしくなっていく。「官能の王国」の一年間は、人とのかかわりを最小限にし、ロリータの交友関係も厳しく制限する。ロリータの行方を探るハンバートは世界が敵意の塊のように思うようになり、会話もぎこちなくなる(そのかわり、陳述書のような文書による語りかけは異常に饒舌)。過度の飲酒や薬物摂取(ハンバートは不眠症)で生命も削り取る。まあ、彼らの不健全さと共同体嫌悪はどちらが先かよくわからないので、因果は不明。
 彼らの遍歴は、破滅に至るまでの地獄めぐりとでもいえるか。自動車にのって(というのが当時のヨーロッパとは違うところ。ヨーロッパでは列車で移動するだろう)、モーテルに宿泊し(他の宿泊者とコミュニケートすることのない孤独で隔絶された場所。そこはブロック「サイコ」のような犯罪を誘発する場所であり、犯罪を隠匿する場所)、観光地をうろつく(「至るところに行き何も見なかった」という)。家庭と労働のないのは世界からの脱落者からするとユートピア。しかしその楽園の無味無臭で、無意味なこと。個人主義を徹底して、互い見だけしかない「官能の王国」を迎えるアメリカ社会がすさまじいまでの荒っぽさと無関心をもっている。夫婦、家族町(コミュニティ)、学校、遊園地や観光地、教養や文化産業などアメリカが実現しつつある個人主義の社会、中間層ばかりのいる社会は、そこになじめないアノマリー(異邦人)や外国人からみると、とんでもなくノンセンスなものにみえてくるのだね。もちろんハンバートに具現される歴史と共用を持つヨーロッパは老化して生産性を持たず、いずれ崩壊するか死滅するしかないのだけど。中年ハンバートのヨーロッパとニンフェット=ロリータのアメリカ。どんずまりにあるか、生まれながらのできそこないか、いずれにしても未来はない。
 ここらの不健全で、破滅的な認識は、同時代のアメリカ人であるケルアックとは大いに違う。ケルアックも自動車に乗って、安宿であるモーテルを使ってアメリカ中をさまよったのだが、彼の見るアメリカはなるほど不具合と不都合だらけで、アノマリー(異邦人)や外国人には厳しかったけれど、健康になりうる力を持っていたのだった。
 というような、どうでもよいことをこの小説から連想してみた。まあ、きちんと読めなかったことのいいわけだ。

  

(さて、このエントリーにはいくつかの言葉のトラップを仕込んでおいた。別の思惑を持って検索した人が、このテキストだらけのページにさまよいこんでくることを期待している。バーボンやテキーラを提供するわけにはいかないので、この芳醇な小説をぜひ読んでください。)
参考エントリー:  四方田犬彦「映像要理」(朝日出版社)