odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

藤井知昭「民族音楽の旅」(講談社現代新書) 西洋中心主義からいかに脱するか。そのために「音楽以前」とみなされた音楽を聴きに行く。

 1980年代の後半のいわゆる「バブル」の時代に、この国では「ワールド・ミュージック」のブームがあった。六本木や池袋のWAVEというCDショップに専門コーナーがあったり、世界の音楽を現地録音したCDシリーズが出たり、ブルガリアやバリ島やその他の演奏家が来日してコンサートを開いたりした。雑誌の特集があったり、テレビ番組が作られたりした。遅ればせながらこれらの音楽に魅かれたので、自分はこれらのメディア展開を重宝しました。今から振り返ると、円高のおかげでそれまでより安く輸入できたから起きたことで、ディケードが変わって不況になると、ブームはしぼんだ。
 さて、この本は「ワールド・ミュージック」という言葉がなかったころの1980年の出版。なので「民族音楽」という言葉を使う。当時の読者は「民族音楽、何?」という認識なので、大半は著者のフィールド調査の報告となる。行く先は、スリランカアフガニスタン、イラン、トルコ、モロッコ、チェニジア、インドネシア。東南アジアから西アフリカまでの長大な地域。たとえば、バリ島のケチャは1920-30年代にドイツ人によって観光客向けにアレンジされたように、民族音楽も資本主義に巻き込まれていて、必ずしも元の姿を残してはいないのだが、著者はできるかぎり観光化されていない音楽を聴こうと、都市から離れる。密林の奥や荒れ地のかなたに行き、そこに住む人からはまず無視され警戒されるのを数週間かけて信頼を勝ち取るさまは、ほとんど冒険小説のよう。あるいはレヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」だ。そこで奏でられる音楽は、出版当時はまず聞くことができない。この国では中村とうよう監修による数枚のレコードがあるばかりではなかったかな。さいわい、21世紀の現在には動画が多数アップされている。この本の調査エリアに近いものとして、たとえば以下の聞きながら、著者の聞いた音楽を想像できる。
(予定していた動画が削除されていたので、リンクを貼れませんでした。)
この動画がよいのは、画質からみると1980年代の映像と思われること。21世紀になって、イスラム原理主義が強くなって、民族衣装や民族音楽が禁止されるようになっているので、貴重だと思う。それは本書中にもあって、著者らはアフガニスタンバーミヤン渓谷の仏教遺跡群を訪れ写真を載せている。この遺跡群は2001年にタリバンに破壊されて壊滅的な被害を受けた。遺跡のみならず、周囲に住み人々の文化と自由も抑圧されたと思うと、気分は重くなる。民族音楽は変化が激しいので(民謡だと思ったのが、数十年前の流行歌であったというのはざら)、保存することは難しいのであったとしても、外部からの圧力で民族音楽が消えることもある。19世紀からの資本主義であり、20世紀からの同化政策、戦争や内乱、宗教原理主義など。ときに民族ごと消されることもあって、そうすると復活することができない(ソ連少数民族同化政策で多くの民族音楽は禁止されたが、共産党政権崩壊後は復活している事例がある。しかし、民族浄化もある内戦や宗教原理主義では人がいないので永久に復活しようがない)。
 著者の民族音楽研究は、それまでの西洋中心主義からいかに脱するかという立場にある。これまでの読書でいうと、パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)クロード・ピゲ「アンセルメとの対話」(みすず書房)に見られた西洋古典音楽を頂点にして、それ以外を野蛮や未発達、「音楽以前」とみなすのをやめる、素材を限定しないで、生活全般を対象にしようとする。戦後の文化人類学民俗学、あるいは音楽学の変化を反映しているわけだ。そうすると、戦前では採譜して、録音して、分類して、ということろで成り立っていた民族音楽研究をそれだけでは足りないとみなす(バルトークのやっていた民謡研究のやり方は不足しているというわけだ)。
 参考エントリー:
伊東信宏「バルトーク」(中公新書)