1934年初出のクイーン第一短編集。短編の数がすくないのは、長編のベストセラーを出すというアメリカの流行作家の在り方や、雑誌に連載された短編を単行本にするのをあまりやらないアメリカの出版社の在り方のためか。
アフリカ旅商人の冒険 ・・・ 大学で応用犯罪学を講義することになったエラリ―は学生3人と最新の事件現場にいく。アフリカ帰りの商人がホテルで撲殺されていた。殺害時刻の一時間前の時刻で止まった腕時計、暖炉で燃やした痕、浴室の髭剃りなどが遺留品。学生3人が推理を披露。
首つりアクロバットの冒険 ・・・ 巡業サーカス団の人気者の女性軽業師。夫の眼を盗んで、他の仲間と遊んでいる。ある日、首をつるされて殺されているのが発見。そこには拳銃、ナイフ、ガス、こん棒ともっと簡単に遂行できそうな凶器がたくさんあるのになぜ首つりという面倒なことをしたのか。そのうえ、首を吊ったロープの結び方は専門家も知らない特殊なもの。あいにくサーカスにはロープを使う名人がたくさんいた。不可思議な事態も、ひとつの補助線(この場合は首のロープを外した後に見つかった死因)で解決。
一ペニイ黒切手の冒険 ・・・ ある書店で売られた本がまとめて盗まれ、同じ本を買ったひとも強盗に盗まれている。近くの切手商では稀少切手(タイトルのもの)が盗まれていた。どうやら盗んだ切手を隠すために、書店の本に隠したと見える。エラリーは関係者を訪問して、その直後に犯人を当てて見せた。あと意外な隠し場所(これもクイーンの好きなお題)。
ひげのある女の冒険 ・・・ ある富豪の最後のひとり。遺産をねらう親族がいて、毒殺未遂が起きた。そこで遺言書を書き換え、イギリスにいる遠縁の女に相続することにした。彼女が館に到着したあと、弁護士が殺される。絵を描いていた弁護士はレンブラントの女性の絵に髭を付け加えた。この奇妙な行為の意味は。見過ごしそうな描写を重ねると真相にたどりつけるが、あわせてイギリス上流階級の趣味を知っていると簡単。
三人のびっこの男の冒険 ・・・ 銀行家がいる。妻に隠れて女を囲っていたが、女はギャングの知り合い。ついに知られることになったか、女が殺され、銀行家が誘拐された。おりから振っていた雪には3つのびっこの足跡がある。これに、床のワックスにはすべった痕があり、エラリーは真相を発見する。似た状況が直後に書かれた長編にも生かされている。
見えない恋人の冒険 ・・・ 田舎町で休養しているエラリーが例によって事件の捜査に巻き込まれる。町の美人と幼馴染のいい関係にあったのが、都会からきた画家がちょっかいを出してきた。美人は言い寄られるままだった。あるとき、幼馴染が厳重に保管している拳銃で画家は射殺される。エラリーは現場でいくつかの家具が移動されているのに注目する。逮捕された好青年と彼を救おうとする美人。エラリーは彼らのために一肌脱ぐ。というのは、「災厄の町」以降のライツヴィルものであるが、そのプロトタイプがここにあった。
チークのたばこ入れの冒険 ・・・ 何をしているかわからない青年のマンションで、グァテマラから変えてきたばかりの弟が絞殺されていた。エラリーが青年にシガレットケースの行方を聞くと、震えだす。警察で尋問するかと立ち話をしていたら、青年は姿をくらまし、自分の部屋で絞殺されていた。タバコを吸わない青年はなぜシガレットケースを持ち歩くのか。
双頭の犬の冒険 ・・・ 双頭の犬はケロべルスのこと。その名前をもつモーテルに宿を借りると、主人他は2か月前の不思議な旅人のことを話し出す。かれは宝石泥棒で犬を連れていたが、夜に失踪した。そのあと、旅人の泊まった部屋に客が入ると、幽霊の声が聞こえる。エラリーがとなりの部屋で休むと深夜に幽霊の声がして、宿泊者が殺されていた。クイーンには珍しい幽霊譚。この旅の目的地がスペイン岬ではないかと妄想してみる(この事件のあとマクリン判事との待ち合わせ場所に行った、と苦しいいいわけ)。
ガラスの丸天井付き時計の冒険 ・・・ 50歳の誕生日を迎えた時計店の店主を悪友たちがプレゼントを贈って祝う。そのよる、店主が殺された。死体はガラスの丸天井付き時計を壊し、紫水晶を握っていた。このダイイング・メッセージの意味は? DMの使い方に工夫があって、後年の長編より自然な解決。
七匹の黒猫の冒険 ・・・ 中風で動けない婆さんは大の猫嫌いなのに、毎週1回猫をペットショップで買っていた。それも前と同じ外見のものをという指名付き。6回続いたのという店員のおしゃべりで興味を持ったエラリーは婆さんの部屋に行くと、老婆は行方不明。部屋はめちゃくちゃに荒らされ、浴槽で一匹の猫の死骸がみつかる。のこり6匹はダストシュートの中で骨になっている。さて何が起きたのでしょう。
解決編を読むとすごいと思うのだが、ページを閉じてしまうと何も残らないという困った短編集。今回の再読もそうだし、40年ほど前の高校生の時の初読でもそう。短編集としては、ホームズ譚やブラウン神父譚はもちろん、J・D・カーやダールの方が印象的だった。
いくつか思い当たることがあって、短い物語でパズラーをやろうとした結果、伏線と回収に気を取られて、描写がおろそかになってしまうこと。「ガラスの丸天井」みたいに容疑者が5人もいると人物の書き分けができない。「チークのたばこ入れ」のようにクイーン警部がいてもエラリーと掛け合いができないので物語が推進しなくなってしまう。ことに、エラリーという推理の化物のような無個性な探偵であると、描写がたりなくて、彼に感情移入できなくなってしまう。そのうえ、事件現場で発見時の様子の説明、被害者の過去の経歴、容疑者の尋問をやるものだから、現在の物語が停滞してしまう。骨格しか残らなくなる。もう1930年代には古典的な短編探偵小説は困難になっていた。例外は「七匹の黒猫の冒険」。これは新しい書き方。解決もスマート。
(そこを乗り越えて、短編探偵小説をうまくかけたのは、都筑道夫。海外だとフラナガン「アデスタを吹く冷たい風」、ヤッフェ「ママは何でも知っている」あたり。)
あと、初出は雑誌だと思うが、1920-30年代のアメリカの都市の事情や風俗を知っているのが前提になっている。解決編にそのあたりが反映しているのは、この国で読むとなんのこっちゃと肩透かしされたように感じる。これも物足りなさの原因のひとつ。
そういう点では訳文が古いので、改訳を希望。この訳者による「キ印ぞろいのお茶の会の冒険」@世界短編傑作集4(創元推理文庫)だとストーリーはわけがわからなかったが、別の訳者による「マッド・ティー・パーティ」@神の灯(嶋中文庫)は明快だったのを思い出す。最後の短編にでてくる「浴槽刷毛」「塵焼きかまど」はもう通用しないことば。