odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

エラリー・クイーン「ギリシャ棺の謎」(創元推理文庫) 世界システムの覇権国になる前のアメリカはヨーロッパに憧れ真似をする。

 以前感想を書いたのを訳と版を変えて再読。
 ギリシャ人の美術商が病気で亡くなり、葬儀を終えると遺言状が紛失していた。式場や屋敷から出て行った不審者はいない。エラリーの推理で墓を掘り、棺を開けるとそこには見知らぬ死体が一緒に入っていた。遺言状は消えている。
 死体は有名な前科者で、美術商と経営する美術館館長にレオナルド・ダ・ヴィンチの絵をひそかに売ろうとしていたらしい。かつてロンドンの博物館が所蔵していたのだが、5年前に盗難にあっていた。美術館長は死体の前科者の兄弟であるが、縁を切ったので数十年もあっていなかった。この美術館長も自宅で射殺される(ここまでで300ページかかるというなんとものんびりした展開)。容疑はレオナルドの絵を購入した富豪に集まる。偏屈な爺さんもエラリーの推理の前には抗うこともできず、捕縛されるのである。しかし……。
 1932年の奇跡の年を飾る一遍。とにかく「意外な犯人」にこだわり、その一点だけの剛球勝負。不可解な事件現場でもないし、意外なトリックもないし、不可解な挙動の容疑者もいない中、犯人を隠す手腕はたいしたもの。犯人を知ったうえで読んだのだが、とりわけ前半に解決のための手掛かりがさりげなく、しかし大胆に記述されていた。この技術はみごと。なので、この大長編は2回読んだほうがよい。あと、クイーンには珍しく犯人にコンゲームを仕掛けているので、そこも楽しみ。
 さて、前回からおよそ10年たって、訳と版を変えての読み直しで、気づいたところをいくつか。
・19世紀後半のアメリカでは、鉄道・鉄鋼・銀行などのビジネスで成功し莫大な資産を獲得した大富豪が輩出した。彼らは従業員の待遇や労働環境の改善にはさほど興味はなかったようだが、一方でチャリティの精神を持っていて、病院や学校、美術館、オペラハウスなどに惜しみなく投資した(ヘレン・ケラーの通った学校がそうやってできたもの)。このミステリの登場人物は捜査陣を除いて、この階級に所属するもの。19世紀の成り上がりが、自らの無知や品のなさを取り繕うために、ハイカルチャーに憧れ、西洋のエリートやブルジョアの真似をしていたのがよくわかる。
・莫大な資産を元に彼らがほしがったのはヨーロッパの伝統や歴史だった。というわけで、レオナルド・ダ・ヴィンチの失われた(と思われる)絵画をほしがる。クイーンの作品ではこの作のほか、「チャイナ橙の謎」で古いイギリス領の切手を、「レーン最後の事件」シェイクスピアの古文書を、という具合に西洋の古いものをほしがる人がいた。ハメット「マルタの鷹」でも似たような欲望が現れていたね。自分の知っている範囲では、アメリカのこの種の欲望、西洋の伝統と歴史を入手する行為は第2次大戦後になると小説の主題でなくなる。戦争で破壊されつくした西洋、一方で世界の工場と食糧生産国になり、民主主義の<帝国>となったアメリカ。価値はアメリカが自ら作り出すものに代わったのかもしれない。
・事件を解決する手掛かりになるのは、パーコレーター、ダイヤル式電話にタイプライター。21世紀の今ではありふれたものか、もう使わなくなった古いテクノロジーのものだが、1932年にはどれも新しい機器で、中産階級にようやく普及してきたものだった。電気式のパーコレーターの歴史はよくわからない。1920年代にたいていの白物家電が販売されていたというから、これもあったのだろう。当時の電話は人手による接続が一般的で、若い女性が大量に雇用されたのが電話交換局。そのような時代に、ダイヤル式は最新テクノロジーにほかならない(吉見俊哉「『声』の資本主義」講談社選書が当時の電話事情に詳しかったと記憶)。タイプライターは1900年代初頭の発明であるが、普及したのは20年代から。ここではアンダーウッド式とレミングトン式に二つの型式があり、それぞれでキーや活字が異なるとされる。当時の最新テクノロジーを使った手掛かりはさぞかし当時の読者を驚かしたと思う(ヴァン=ダインやクリスティの有名作品でもそうだったと思う)。さて21世紀の読者は以上のガジェットをどう思うのか。枯れたテクノロジーになりかわっていて実物を見たことも触れたこともない読者は、エラリーの発見する手掛かりの意味を理解できるのだろうか。1990年代あたまにポケベルやワードプロセッサーを使ったトリックや、スペックの違いによる錯誤などが盛んに書かれた。いまでは、当時の作品はまず見向きもされない。さて、クイーン作のは生き延びているのか、そうだとするとどこが違うのか。


エラリー・クイーン「ローマ帽子の謎」→ https://amzn.to/43T90fY https://amzn.to/43QwpOZ https://amzn.to/3TN2piB https://amzn.to/4aHlE3M
エラリー・クイーン「フランス白粉の謎」→ https://amzn.to/3U8X5at https://amzn.to/3TPkMDq https://amzn.to/3VQxKUf https://amzn.to/3xugUQQ
エラリー・クイーン「オランダ靴の謎」→ https://amzn.to/3TNV6Hn https://amzn.to/4aMS3pw https://amzn.to/49ofEMk https://amzn.to/3JeorG5
エラリー・クイーン「エジプト十字架の秘密」→ https://amzn.to/3TIK9Xy https://amzn.to/3Ub9SZ5 https://amzn.to/3vJZcYX https://amzn.to/4cLJi0X
エラリー・クイーンギリシャ棺の秘密」→ https://amzn.to/43PGonM https://amzn.to/43SqWHB https://amzn.to/3xr7G7U https://amzn.to/4cQvQZO
エラリー・クイーン「Xの悲劇」→ https://amzn.to/3PQUEqH https://amzn.to/3vMnqSu https://amzn.to/4aNMF5C https://amzn.to/4aOWbFx
エラリー・クイーン「Yの悲劇」→ https://amzn.to/3PV19sv https://amzn.to/49zoy9Q https://amzn.to/4aoaSjp https://amzn.to/3vJIitw https://amzn.to/3Ja6jwP平井呈一訳)
エラリー・クイーンアメリカ銃の謎」→ https://amzn.to/3vLr66Y https://amzn.to/4aN0VMc https://amzn.to/3xugAl6 https://amzn.to/3vBZyRA
エラリー・クイーン「Zの悲劇」→ https://amzn.to/43RmGIk https://amzn.to/4ap0NT3 https://amzn.to/3TNVkOJ
エラリー・クイーン「ドルリー・レーン最後の事件」→ https://amzn.to/49wsIzp https://amzn.to/43Py6fK https://amzn.to/49wsZlV https://amzn.to/49tw7Pi
エラリー・クイーンシャム双生児の謎」→ https://amzn.to/3PUbQvf https://amzn.to/43OehW9 https://amzn.to/3TTSRCi
エラリー・クイーン「チャイナ・オレンジの謎」→ https://amzn.to/49rrp4B https://amzn.to/3PUtgYI
エラリー・クイーンエラリー・クイーンの冒険」→ https://amzn.to/3xxBLms
エラリー・クイーン「スペイン岬の謎」→ https://amzn.to/49wJVZr https://amzn.to/3UadICH https://amzn.to/3J9rTSn
エラリー・クイーン「途中の家」→ https://amzn.to/3PQULT9 https://amzn.to/3PW1R8L
エラリー・クイーン「日本庭園殺人事件」→ https://amzn.to/3TS8zxP https://amzn.to/3xqj7fX
エラリー・クイーン「悪魔の報酬」→ https://amzn.to/4aPg2ET
エラリー・クイーン「ハートの4」→ https://amzn.to/4aJiDQw
エラリー・クイーン「ドラゴンの歯」→ https://amzn.to/3TYIdui https://amzn.to/3vMClfn
エラリー・クイーン「神の灯」→ https://amzn.to/3xugIB6
エラリー・クイーン「大富豪殺人事件」→ https://amzn.to/3xBuO3r
エラリー・クイーンエラリー・クイーンの新冒険」→ https://amzn.to/3U8WpSq
エラリー・クイーン「災厄の町」→ https://amzn.to/49sunpG https://amzn.to/4aD63lU https://amzn.to/3JvSCsB
エラリー・クイーン「靴に棲む老婆」→ https://amzn.to/3xu6lx6 https://amzn.to/3TSaKkR
エラリー・クイーン「フォックス家の殺人」→ https://amzn.to/43OcPmB https://amzn.to/3Jgr1es
エラリー・クイーン「十日間の不思議」→ https://amzn.to/3TT2nWg https://amzn.to/4cOrdiG
エラリー・クイーン「九尾の猫」→ https://amzn.to/4cQ5xCT
エラリー・クイーン「ダブル・ダブル」→ https://amzn.to/4auBpeW https://amzn.to/3vIPPZG
エラリー・クイーン「悪の起源」→ https://amzn.to/3VS1aRM
エラリー・クイーン「帝王死す」→ https://amzn.to/3xB5BWS
エラリー・クイーン「犯罪カレンダー」→ https://amzn.to/3U7GkN2 https://amzn.to/4aMSAb0
エラリー・クイーン「緋文字」→ https://amzn.to/3JbwN17
エラリー・クイーン「ガラスの村」→ https://amzn.to/49yLl5A
エラリー・クイーン「クイーン警視自身の事件」→ https://amzn.to/43PyFGo
エラリー・クイーン「クイーン談話室」→ https://amzn.to/3Jclndy
エラリー・クイーン「最後の一撃」→ https://amzn.to/4cQw6YM
エラリー・クイーン「二百万ドルの死者」→ https://amzn.to/4aMSO1Q https://amzn.to/3J7HbXM
エラリー・クイーン「盤面の敵」→ https://amzn.to/3PWlFci
エラリー・クイーン「第八の日」→ https://amzn.to/3VMM3sV
エラリー・クイーン「クイーンのフルハウス」→ https://amzn.to/4aKXOEu
エラリー・クイーン「三角形の第四辺」→ https://amzn.to/3vBzk1B
エラリー・クイーン「顔」→ https://amzn.to/3J7GVIi
エラリー・クイーン「最後の女」→ https://amzn.to/4aLQhVJ https://amzn.to/4arej8S
エラリー・クイーン「心地よく秘密めいた場所」→ https://amzn.to/3xpZZ1L



 吉見俊哉「『声』の資本主義」は版元が変わっていました。

吉見俊哉「『声』の資本主義」→ https://amzn.to/3vNO2CD