odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

エラリー・クイーン「ローマ帽子の謎」(ハヤカワ文庫) 帽子がないのが問題になるのは、当時の紳士は、タキシードにタイ、シルクハットとシルクのハンカチ、ステッキにエナメル靴という正装でなければならないから。

 クイーンのデビュー作で、1929年初出。この年にはブラック・マンデーからの大不況が始まるのだが、この作はそのような気配が微塵もない。なので、舞台のニューヨーク・ローマ劇場には着飾った紳士淑女が大挙して押し寄せている。この時代のトップモードは、たとえばフレッド・アステアにみられるように、タキシードにタイ、シルクハットとシルクのハンカチ、ステッキにエナメル靴という正装。ローマ劇場に集まった男性観客はこういうドレスコードに従っていたわけで、作中で被害者のオペラハットの行方を気にするのはそういう事情があったからに他ならない。あと重要な背景にあるのは、禁酒法とギャングの横行、都市の電化と建物の高層化、マスコミの発達と娯楽の多様化、消費者=群衆の誕生あたり。近代の大量生産=大量消費の原型がここにあって、1950-90年の西側先進諸国が追随して達成する。

 さて、不振のブロードウェイで唯一大当りを取っているローマ劇場の「銃撃」という出し物。派手な銃撃音が売り物で、第2幕のフィナーレで舞台が混沌としているなか、アリーナの後方から悲鳴があがる。最後部の端の席に座っている紳士が崩れ落ち、息を引き取った。その直前には舞台の照明が消されていて、場内はほぼまっくらだったのだ。ドアマン、切符切り、ジュース売りなどの証言によると、死体発見の前後に劇場をでていった者はいない。しかし、観客、俳優、舞台関係者、劇場関係者を調べても、すぐに犯人とわかるものはいなかった。奇妙なのは、この紳士が着用していたはずのオペラハットが消えていたこと。警官が捜索したが見つからない。
 この紳士は弁護士であるが、どうもよくない噂の方が多い。すなわち、かつて事務所を経営していた弁護士とは喧嘩別れしているし、「牧師」のあだ名のギャングが近辺をうろちょろし、前科持ちの大男を用心棒にしているうえ、ある富豪の娘を懇意になろうとしていて、俳優と三角関係にある。そのうちにこの紳士は実は恐喝の常習犯であり、証拠を巧妙に隠しているために、市警は手を出せなかったのだ。まあ、第1次大戦で経済発展を遂げたアメリカの典型的な成り上がり(というには不正が過ぎるが)であるわけだ。彼が殺されても、周囲は誰も困らず、むしろ後ろ手で喝采を送る。著者の自国観にしてはイロニーが過ぎる、というのはうがちすぎか。この小説では深刻な悩みをもつものはいないし、金に困るものもいない(ギャンブル依存症くらいなものだ)。景気のよいアメリカの最後の姿がここにある(そして1932年の傑作群にはもはや繁栄の様子はない)。
 あれやられた、と思ったのは、初読の中学生のとき、まったくエラリーの推理と同じ順序で犯人を当てたのに、今回の再読ではすっかり見落としてしまったこと。ものすごい勢いで読んだからでもあるが、中学生の自分に負けたと思うと、ちょっと悔しい(笑)。
 代わりに気付いたことをいくつか。
・中心になるのは、衆人環視の劇場内でいかに犯行を行ったかであるが、ほかにも小ネタがたくさん。暗号めいた被害者の理解できないメモ、意外な隠し場所、ビブリオマニアの蘊蓄など。こういう技術や関心はのちの作ほど手が込んでくるのだが、すでにここに見られるとは。「処女作にはその作家のすべてがある」というのはこの作家には半分あたっていて、半分はずれていた。これは面白い発見。
・捜査の過程は、クイーン警視の視点で語られる。容疑者や関係者の尋問とか、現場の証拠品捜索などは、この脇役によって正確に見つめられ、描写される。最終的な解決をもたらすエラリーはときに単独行動をとるが、クイーン警視視点ではエラリーの不自然な行動は単なる行方不明であるし、愚痴やつぶやきはノイズになって聴き取れなくなる。クイーン警視の物語として語ることによって、作家と読者がフェアであることを達成しているわけで、ここはうまい書き方だと思った。事件には利害の関係しない警官が見ていることの記述であるというのが、作家と読者の間のフェアプレイを担保することになっているわけだ。ヴァン=ダインやクリスティの探偵視点による記述では、作家と読者が同水準で証拠を集めるというフェアプレイの前提が、探偵のプライドによって損なわれている(なので「犯人がわかったならさっさと逮捕しろ」「次の被害者が予想できたなら犯罪阻止に動け」など批判がでてしまう)。模倣している例がほとんどないのがふしぎ(法月綸太郎くらい? よく知らないが)。
・著者(グループ)の最初の作品で23歳の青年の手になるものであるが、小説の完成度の高さに脱帽。これは僻みとか偏見なのだろうが、1980年代からこの国では20代の青年が探偵小説を書いて、さかんにプロデビューしたものだが、その文章の青臭さ、人物描写の稚拙さ(同世代の同じような境遇の人物しか登場しない)に辟易したものだが、こちらの若者の作にはそのような若書きや青臭さは見たらない。いきなり完成形としてでてきたわけで、これには驚いた。デビュー作の完成度という点では、クリスティやカーをはるかにしのいでいる。
 中学生の時に犯人を当てることができた(自分には極めて珍しい)ので、なめた読書をしていたが、よい方向に裏切られました。ここを出発点にしてのその後の活躍は目覚ましい。探偵小説の流れを独力で変えた稀有な作家だった。


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