odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

ロバート・S・メンチン「奇妙な遺言100」(ちくま文庫)

 古今の奇妙な遺言をあつめた。
 奇想天外な例がある。50年ごとの特別な日にプディングやパンを焼いて貧しい人に配布しろとか、売れない俳優が来たら靴一足を恵む基金にしろとか、頭蓋骨を残して「ハムレット」を上演するときの小道具に使えとか。あるいは、「誠意」「知性」などを贈る(どうやって使えというのか!)、こいつには一文(いやペニーか)たりともやらんとか。
 原題を直訳すると「最後の気まぐれ」となるそうだが、末期にいたっても個々人に対する愛憎は強烈であるとか、意外な人がチャリティの精神をもっているとか、人の感情のふり幅は大きいものだなあ、自己表現の場として機能していたのだなあと感心する。ただ、遺言内容は18世紀の古いものほど面白く、20世紀にはいるとせちがらくなったのか奇想天外なのが少なくなる。資産は平等に分配するという法が整備されて、人々もそのような意識に変わってきたからだろう。

 もうひとつ感心したのは、遺言状が見つからないような死に方をしたときに、残された人々はどうにかして故人の遺志を発見しようとすること。その結果、きちんとした紙に書かれ丁寧に保管されているばかりでなく、走り書きであるとか、途中でインクが切れたものとかが遺言状に認定される。さらには、指輪に掘った文字、入れ墨などが遺言状として認定されている。
 そこまでの情熱をもって遺言状を発見しようというのは、所有権に関する個人の意思を重視し、リスペクトするという西洋(とりわけイギリス)の考え方にあるのだろう。人権の基礎を所有権に見たのはジョン・ロックあたりだが、彼の「市民政府論(岩波文庫旧版)」に次のような文章がある。

「人は誰でも自分自身の一身については所有権をもっている。これには彼以外の何人も、なんらの権利を有しないものである。彼の身体の労働、彼の手の働きは、まさしく彼のものであるといってよい。彼のこの労働によって、他の人々の共有の権利を排斥するなにものかがそれに附加されたのである。この労働は、その労働をなしたものの所有であることは疑いをいれないから、彼のみが、己の労働のひとたび加えられたものに対して、権利をもつのである(P32-33)(略)こうして私のものであった労働がそれに対する私の所有権を確立したのである。(P34)」

 のちのマルクスの労働価値説にまで通じる議論になるのだが、そこより「人(のなか)の意思が肉体を所有する」という考えに驚いた。彼の意思、遺志が書かれた言葉は、残された人が尊重して、その通りに実行しなければならないモラルになる(とりわけチャリティを実行しなさいという遺言には強い強制性があるのか、死後百年を経ても遺言を執行しようとする。ノーベル賞が代表だが、小規模なのはたくさんあるようだ)。裁判を行うこともできるが、遺言の内容を覆すには、もっと後に書かれた遺言状があるか、遺言状を書いたときには正常な意識を持っていなかったことを証明するしかない(ように思う)。そこには「公益」とか「公共性」などは介入できない。
 これはこの国の考え方とずいぶんちがう。この国では、死んだ人の意思を確認するより、肉体を回収することが重要。肉体が家族や故郷に戻ることでようやく死後の平安を得られるとされる(なので遺体や遺骨の収集に情熱を注ぐことになるし、定期的に参拝することになる)。これは上にあげたイギリスなどの考えかたとはあわない。かの地では肉体はそれほど重視されず(遺体に敬意を払うのは当然としても)、回収不可能とされればそのままとする。むしろ臨終で最後の告解をすることのほうに情熱が注がれる。
 あとこの国では、故人の残した資産を分配するさい、個人の意思より、残された人々の合意が優先される。合意が取れないと、利害を異にするグループ間で遺産相続の抗争が起こる。個人の家だけでなく、死者が残した組織の権力や権威の相続でも同様。
 以上は探偵小説を読み比べたときの見方。英米の探偵小説では故人の残した遺言状の争奪や有効無効をめぐって残された人たちが騒ぐ。一方、この国の探偵小説では、故人の持っていた家や組織の権力を誰が引き継ぐかを巡って残された人たちが騒ぐ。クイーンの「Yの悲劇」横溝正史獄門島」「犬神家の一族」の違いはこのあたり。
 と本の内容には一切関係ないことを妄想してみた。