odd_hatchの読書ノート

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大江健三郎「万延元年のフットボール」(講談社文庫)-4 現在の物語が進行しながら、過去の物語が明るみになるという構造。作家の最も技巧的な小説。

2017/01/17 大江健三郎「万延元年のフットボール」(講談社文庫)-1 1967年
2017/01/16 大江健三郎「万延元年のフットボール」(講談社文庫)-2 1967年
2017/01/13 大江健三郎「万延元年のフットボール」(講談社文庫)-3 1967年の続き。


 1967年に書かれた長編で、作家がノーベル賞を受賞したとき、主な成果に上げられたのが32歳で書かれたこの作品。自分はこの稠密な小説を読んだのが20歳の時で、とてもではないが細部の読み取りなどできなかった。それから35年ぶりの再読でメモを取りながら読んだので、今度はよくわかったと思う。それに、彼の小説を逆順に読み返してきたので、のちの作品のモチーフがそこかしこにあって、あるいは若い時に熱中した20代の小説のイメージが繰り返されているのを発見して、とても懐かしかった。どういう作品が関連しているかは別のエントリーに書いているので、ここでは繰り返さない。
 この小説では現在の物語が進行しながら、過去の物語が明るみになるという構造にもなっている。
 現在の物語では、鷹四による村の再活性化と蜂起未遂のあとのスケープゴート化がある。そこに、蜜の家族と鷹のグループの葛藤とそれぞれの問題克服。語り手(主人公ではない)の自己破壊衝動と新生への歩みだし。これらの複数の物語が進行する。それぞれの問題は、前エントリーで簡略に説明。
 過去の物語では、万延元年の一揆、敗戦直前の朝鮮人部落襲撃、「僕」の一族(とくに父と妹)の不審死の捜索などがある。これらの過去の事件にも情報が集まり、「僕」は事件の再解釈をする。あるいは事情を知る鷹による新証言がでる。それによって、曽祖父の弟の行方、蜜と鷹の妹の自殺の真相が明らかになる(とくに後者の真相は手塚治虫奇子(あやこ)」の物語の先取り)。ここの探偵小説的な趣向も見事に決まる。
 この作家の作品では、ストーリーと主張が目立って多くの人はそこに注目することになるが、この長編で見せた技巧はみごと。ストーリーや主題も過去作品の集大成で、20代に書いた作品のモチーフを全部ぶち込んて、技術のありったけを駆使して、とても濃密な作品に仕上げた。その緊密感はこの作家の中でも傑出しているし、この国の近現代文学でここまでを達成しているのはなかなか思いつかない。なるほど、これを作家の最高傑作に上げる人がいるのには同感(個人的には「同時代ゲーム」も双璧にあげたい)。
 ただ、今回の読み直しでは、技法の見事さに目を奪われ、過去に読んだ作品のあれこれが顔を出すのが煩わしくて十分に堪能したとはいえず、作品に書かれた「問題」を救い上げるまでにはいかなかった。そうなった理由のひとつは上記のような「大作」になったこと。緊張感の連続するシーンが続いていて、すごいことが起きているのが分かるのに、いくつも情報が圧縮されているので解読できないうちに次のシーンになってしまう。もうひとつはユーモアの不足。蜜にしろ鷹にしろ菜採にしろ、まじめで真っ向から問題に直面し、いつも悩んでいて、他人と共感することができない。それを埋めるのがユーモアなのだが、その余裕を持っている人はないない(ジンと隠遁者ギーくらいがコメディリリーフになれそうだが、彼らは悲惨な境遇で自分を笑い飛ばせない)。登場する人物はいずれもいつも悩んでいて、不満をぶつける。それは物語に緊張感をもたらしたが、読者を解放することはできなかった。それに蜜や鷹の行動(引きこもりであれ、蜂起であれ)の理由が理解できず、共感しにくいのも。まあ、40歳以降の作品では、ユーモアは重要な方法になったし、行動の理由付けも常識的なものになっていく。
 見事なのに、印象が薄くなるというのはこちらの側の問題なのだろうなあ。